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海4章 宮内少輔(その五) [天海山河(海の巻)]

船はゆっくりと東へ進んだ。
浦戸城から南に突き出た龍王崎を回れば、勝浦ヶ浜の美しい松並木とともに弓の如く延びる玉白洲が目に入る。
龍王崎の舳先には一本の大松と赤い鳥居を付けた小さな社が立ち、浜には長宗我部の陣幕が張られ、出迎えらしき人影が二三十群れている。
「ここでよい。」
康政は水主に合図した。
船は浜から三町沖に碇を下ろし、小舟を付けた。
「康政様、御上がりのご用意が調いました。」
と、水主は言った。
「左様か。では小鶴津殿をこれへ。」
と、康政は返した。
水主は小首を傾げた。
「すでに小鶴津殿は随行のため、別の小舟にお乗りでござりまするが。」
と、水主は答えた。
康政は顔を曇らせた。
「水主よ。誰が小鶴津殿を随行させよと申した。まろはこれへと申したはずじゃ。」
と、水主を睨んだ。
「申し訳ござりませぬ。」
水主は周章てて鶴津丹波守を呼びに向かった。

一方、浜辺では、
「来たぞ。」
と、長宗我部の見張りの者が声を上げた。
陣幕の内に居た者どもは、急いで浜辺に出た。
無数の船が、勝浦ヶ浜の沖を雲霞の如く埋め尽くしている。
「ひい、ふう、みい…。」
「長門守殿。」
と、国沢将監が声を掛けた。
国沢氏は本山氏に従う土佐郡国沢村の領主で、土佐七雄に次ぐ家柄であった。
国沢という名はかつてこの辺り一帯が葭原と呼ばれる土佐随一の湿地であったことに由来する。
今日、湿地と言えば荒れ地に等しく、何の価値もない土地に思えるのだが、中世においてはそうではない。
当時、葭は貴重な建材で、税にも取り立てられるほどの高い利益の見込まれる土地であった。そのため、この辺りは国一の沢から国沢と呼ばれ、足利尊氏から土佐東端の名刹最御崎寺に寄進された土地であった。
そして、その寺領を管理していたのが国沢氏であった。
将監の祖父、助高は長宗我部氏からの入り婿で、元親の大伯父に当たる。将監はその誼で降服したのである。
「将監殿か。」
と、大高坂(おだかさ)長門守能重が振り返った。
大高坂氏の居城大高坂城は今日の高知城である。
南北朝の頃には大高坂松王丸が籠り、南朝方として戦ったという。松王丸は暦応三(1340)年に討ち死し、土地が最御崎寺に寄進されたのは翌暦応四年であるという記録が残っている。
一方で大高坂氏の記録は数代にわたり空白となり、松王丸と長門守が同系のものなのか判然としないが、隣接する国沢氏とは親類であったようで、この度、その誼を通じて本山氏から長宗我部氏に転じたのである。
「指では数えられませぬぞ。四十、いや、五十はござる。」
と、将監は言った。
「将監殿、それがしはあの大きな船がどれ程離れておるかと数えておったのじゃ。」
と、長門守は屋形船を指した。
「なに、そなた、何を考えておる。」
「これだけの船じゃ。もし攻めて来れば、我らは一堪りもない。ならば一の船に火矢を射ち、沈めるしかあるまい。」
と、長門守は答えた。
将監は目を丸くした。
先般、降服の折りに、長門守は大高坂の城より十町離れた小高坂の砦に矢文を放ち、櫓の軒下で飯を食っていた見張りの椀に当てたというから、弓の腕前は相当のものである。
「おぬし、左様なことを考えておったのか。」
「うむ、三町はあるかのう。」
長門守は指を折った。
「尺を指を折って数えるやつがあるか。」
と、将監が言うと、長門守は折った指を見て、
「これか。それがしは数を数えるのが苦手じゃきに、癖になったのじゃ。」
と、返した。


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