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海4章 宮内少輔(その六) [天海山河(海の巻)]

沖では、康政がじれていた。
「政所様、お呼びにございましょうや。」
と、鶴津丹波守が小舟に揺られてやって来た。

丹波守は仁井田五人衆、志和(難波)氏の一族で本姓を島岡という。
もとは志和村の土居近くに居を構えていたが、鶴津の地を与えられて、そこに移った。
鶴津は外界と急峻な山によって隔てられ、手前の小鶴津には海に突き出した岬があり、奥の大鶴津と分かれている。
丹波守はその岬に城を構えていた。
ある日、沖の方を眺めていると、敵の船が攻め寄せてきた。
丹波守は大弓を取り、
「あな、遠きかな。ここにては届かじ。」
と、背後にそびえる山にかけ登り、崖の上から八町(約八百八十メートル)向こうの船の横腹を射抜いて沈めたという。
これより、世人は丹波守を鎮西八郎為朝(源為朝※)になぞり、『今為朝』と呼ぶようになった。

「小鶴津殿、早ようこちらに上がられよ。」
と、康政は促した。
丹波守が小舟から屋形船に乗り移ると、康政は、
「貴殿に一つお願いがおじゃる。浜上げの合図に、あれに見える朱の鳥居に矢を射てもらいたいのじゃ。」
と、龍王崎の鳥居を指差した。
丹波守はその方を仰ぎ見て、
「三町ほどなれば、容易きこと。されど、あれは神恵の兆すところなれば、憚り申す。代わりにあれに掛かりし松の笠を、一度に三つ射ち落としてご覧にいれましょうや。」
と、言った。
「ほう、それは頼もしい。神恵にも叶おうことぞ。」
と、康政が言うや否や、丹波守は例の大弓を取り、鏑矢を引き詰めると、びゅんと音を立て射放った。
矢はきゅるきゅると甲高く鳴り響き、鳥居に掛かる松の枝先をかすめ、松笠を三つ射落とした。
松笠はころころと転がり、出迎えに現れた長宗我部親貞の足元に落ちた。
親貞はその松笠を一つ拾い上げ、
「何と見事な矢捌き。誰ぞ、これに敵う者は居らぬか。」
と、辺りに声を掛けた。
それを聞いた国沢将監は、
「長門守殿、ここはそなたの出番じゃ。あれに居るは今為朝。飯椀の与一の腕前を一条御連中に見せてやれ。」
と、言った。
大高坂長門守は苦笑いした。
「将監殿、飯椀の与一なる異名はお断り致す。那須の門葉は土佐に繁茂しておれば、名を語るに憚り申す。某は無銘無冠でよい。」
と、弓を取り、
「このご返答は大高坂長門守がつかまつり申す。」
と、親貞の前に進み出た。
長門守の噂は親貞の耳にも届いていた。
しかし、その腕前がどれ程のものなのか見たことはない。
「長門守、船までは三町はあるぞ。届くか。」
と、訊ねた。
「畏れながら、某にとって三町は容易きこと。御所の射手は名うての者なれば、こちらも面白き妙技をご覧にいれまする。」
と、長門守は答えた。
これ程の自信に親貞も躊躇するところだが、ちょうど長宗我部の直臣に弓の名手はいても、剛弓の射手はいない。
親貞は頷き、
「頼もしき言い様かな。どうやらそなたの腕に頼るしかあるまいな。」
と、長門守に託した。
長門守は波際に出で立った。
沖を見れば、屋形船の帆柱に吹き流しが取り付けられている。
それは海をわたるそよ風に流され、つけ縄がこちらからよく見える。
長門守は箙から雁股の付いた鏑矢を取りだし、弓につがえた。
風は西寄り。
矢を引き詰め、やや右に狙いを定めた。
誰もが固唾を飲んで見つめる中、長門守はひょうと矢を放った。
鏑矢のぬた目は金切り立てて三町の波間を飛び越え、帆柱の尖端に突き刺さった。
「う、うおお、当たったぞ。大高坂長門守がやったぞ。那須与一がごときかな。今与一。」
と、辺りは歓喜に包まれた。
一方、一条方は騒然とし、屋形船の上では、
「長宗我部め、なかなか味な真似をしおって。」
と、康政が切歯していた。
長門守は弓を納めると、振り返って、
「今与一は憚り申す。」
と、こぼして、喜ぶこともなく陣列に戻った。
そのようすに誰もが唖然とした。
国沢将監は長門守に、
「貴殿はあれほどの技を成して、何ゆえ喜びもせず、また与一の異名を拒む。」
と、訊ねた。
すると、長門守は、
「あれは失敗じゃ。」
と、答えた。
将監は訝しく思い、問いただすと、長門守は屋形船の吹き流しを指差して、
「わしは雁股の付いた矢を用いたのじゃ。あれに付きし吹き流しを切り落とそうと思うてな。与一は揺れる小舟の扇を付け根に当てて落としたというではないか。今為朝は松笠を三つ。わしは帆柱では質実及ばぬ。」
と、答えた。
将監は呆れて、
「世に上には上が有ると言う。されど、競うことにも程がある。ここに至って、凡庸にてはもはやこの弓矢の争い、優劣見極め難し。」
と、舌を巻いた。



※源為朝:保元の乱で活躍した武将。源為義の八男で、義朝の弟。手に余る暴れもので九州に流されるが、そこで暴れまわり鎮西八郎と名乗った。保元の乱では上皇方に付き、得意の剛弓で活躍するが、味方は敗れ、伊豆大島に流される。そこでも暴れまわり、終に朝廷の追討を受けて自害する。この時、敵の船を矢で射ち、沈めたという。




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