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岡豊山 [天海紀行]

 JR土讃線後免駅より西に1km行ったところ。
 そこから北に白い建物の見える山が岡豊山。
 白い建物の手前一段上がった高いところが、岡豊城の本丸(詰)があったところ。
 正面手前の草原が小籠、中島。右奥が吉田、江村一帯。
 城山の背後に連なる山が嶺石連山。その峰の向こうに本山郷がある。
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朝倉城跡 [天海紀行]

 JR土讃線高知駅より西に5キロ、鏡川に掛かる鉄橋を越えるとすぐに朝倉駅に着く。
 その南西に見える山が重松山。
 かつてここに本山茂宗が土佐中原の覇権を目指して築いた朝倉城があった。
 いくつもの郭を構えた連郭式の城は南北約1キロにも及び、南の端に出城の鵜来巣城が守りを固めていた。
 まさに圧巻の巨城も、今は本丸跡と古井戸を残し、すっぽりと木々に覆われている。
 また、鵜来巣城跡も城地の大半が宅地開発によって削られ、山頂に小さなお堂を残すのみである。

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朝倉城の本丸は国立病院の裏手にあった。
うぐるす緑地が鵜来巣城跡。

茂串山城跡 [天海紀行]

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茂串山城跡。
写真中央、やや突き出た山頂に詰の段があった。

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麓に四国三十七番札所岩本寺がある。
お寺の裏手には仁井田五人衆の一人、窪川(山内)氏の墓がある。








吸江 [天海紀行]

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五台山付近。
麓に吸江庵跡がある。
五台山の名も、吸江庵に因む。
近くには、伊達騒動で有名な伊達兵部宗勝の墓がある。
百数十年後、長宗我部氏が伊達騒動と深く関わることになるとは、国親も思ってもいなかっただろう。




楠目城跡 [天海紀行]

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楠目(山田)城跡

左手、木々の茂る中に城があった。今は中学校がある。
山並みの右奥、尖った辺りに烏ヶ森の城があった。




甫木山 [天海紀行]

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甫木山
繁藤方面から見た甫木山。
あの峰を越えれば、眼下に香長平野を一望できる。







岡豊城址 [天海紀行]

岡豊城址に潜入。
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探索の入り口は北側の高知県立歴史民俗資料館。付属の駐車場(無料)から遊歩道が整備されている。
城の北側は工石連山の山並。一気に坂を登って、二ノ段を目指す。
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一部岩がむき出しになっている。当時の面影を偲ばせる。


『二ノ段』
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やや開けた平坦な場所に出た。
そこからは土佐のまほろばを望むことができる。
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写真左上の森が国分寺。その向こうに紀貫之も赴任した土佐の国衙があった。



『詰下段』
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『堀切と井戸』
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岡豊城址見処の一つ。詰下段の建物跡と詰ノ段との堀切。
堀切には手前に水を溜める井戸のような跡がある。



『詰ノ段』
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開けてはいるが近代城郭より狭い。威厳よりも防衛を重視したためであろう。高知城よりも険しく実戦的である。
見えるのは模擬天守。
『城八幡』
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模擬天守の向かいの木立の中の城八幡がひっそりと祭られていた。
三ノ段へ向かう。
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『三ノ段』
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三ノ段は見処が満載。詰ノ段を南から西に向けて包むように延びている。
写真は三ノ段南側。左手に虎口が見える。土塁も高く、2メートルほど。崩れを防ぐ石積もあり立派。まさにここは防御の要。
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三ノ段の西側。建物跡の礎石。馬出曲輪に繋がる場所のため、何か重要な建物があったのだろう。石積も他よりしっかりとしている。


『馬出曲輪』
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とても広く平坦である。虎口に向かってやや傾斜しており、四ノ段に繋がっている。傾斜は四ノ段に突入した敵を迎撃するため、勢いをつけるためであろう。
『馬出虎口』
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岡豊城最大の見処。
四ノ段に向かって、くの字に曲げている。敵からこちらが見えにくい構造である。傾斜もつけており、両側の壁も石積で補強している。



『四ノ段』
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馬出虎口から出たところ。平地が広がる。
土塁もなく、無防備に見えるが、そこに罠がある。
曲輪の縁には木の塀か柵が巡らされていたのであろう。
ここに敵を誘い込み、三ノ段と馬出曲輪から一気に殲滅するつもりであっただろう。
さらに、罠はほかにもある。
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四ノ段から三ノ段を見ると、あたかも三ノ段が詰ノ段に見える。敵は一気に攻めようと三ノ段に釘付けされ、馬出からの横やりに気付き難くなる。
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四ノ段から南を望む。手前に国分(石清水)川が流れる。
『石碑』
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四ノ段には城跡を示す石碑がある。(四ノ段下より撮影)
揮毫は明治の政治家、田中光顕。光顕は長宗我部氏累代の家臣、濱田氏の末裔。
四ノ段からは綴坂と堀切が網の目のように交差する。
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綴坂を下り、厩曲輪へ。



『厩曲輪』
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馬場曲輪とも。とても開けている。西を守る出城として機能した。
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南側(大津方面)を望む。川向、手前には重臣中島氏の屋形があった。

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西側(高知市)を望む。

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厩曲輪にも二ノ段があった。

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厩曲輪から詰ノ段を望む。森の中に模擬天守の屋根が見える。
遊歩道をたどって城の北西を通り、散策口に戻る。


『北西の横堀』
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途中、小さな虎口の付いた横堀や幾つも竪堀を見ることができる。
北西の守も堅いようだ。

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近所の住人の方が愛犬を連れてお散歩。外国のツーリストとも遭遇。
岡豊城は今も多くの人に愛されているようだ。


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