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天1章 皮籠(その一) [天海山河]

 
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 蝉が大樹の梢の中で、まるで最期のときを知らせるかのようにけたたましく鳴いている。
 その下を一人の男が駆け足で通り過ぎていった。
 男は蓑笠を深くかぶり、大きな皮籠を背負っている。
 一見、振り売りのようでもあるが、どこか腑に落ちぬところがある。
 振り売りならば人里の街道を通ればよいものを、男はまるでそれを避けるかのように裏手の山道を一目散に駆けてゆくのだ。

 どれほど走ったであろうか。あたりは人気のない深い森の中である。
 木漏れ日は黄金色に輝き、蝉時雨がこだまする。
 突如、男は足を止めた。
 ―何者であろうか―
 男の背筋に戦慄が走った。
 とっさに傍らの茂みに隠れると、そっとあたりを窺った。
 しかし、山の小道に人影はなく、頭上では梢が風に揺らされ、きしきしと音を立てているだけである。
 男はほっと胸をなでおろした。
「さすがにここまでは追って来ぬか。」
 男はそうつぶやくと、再び駆け出した。
 森を抜けると、陽はすでに西の彼方に傾き、男の頬を照らした。
 顔はすすけ、蓑笠の端緒から汗が滴り落ちている。
 男は立ち止まり、一度大きく深呼吸すると、すぐにさま走り出した。
 よほどの健脚の持ち主なのであろう。男は昼夜を問わず、三日三晩、走り徹した。

 そして丘の上に立ったときのことである。
 ふもとに田園が広がり、そこを縫うように流れる川の向こうに大きな市屋町が目に入った。
「中村じゃ。」
 男は胸躍った。一気に坂を駆け下り、川の浅瀬を渡ると、町に入った。
 ここは摂家の御領、土佐幡多の庄の邑都である。
 町は京の都のごとく碁盤の目のように区切られて、大路の突き当たり、町のほぼ中央に堀で囲まれた大きな屋敷がある。
 東西南北に一町(約100メートル)余、土佐にこれほどの屋敷は他にない。
 屋敷の中ほどにはこんもりとした小山があり、頂上に三階の高楼が立っている。庭園のあちらこちらには青く茂った藤棚があり、初夏には一面うす紫色の藤の花に覆われて、別称「藤遊亭」とよばれている。これが土佐一条家の屋敷、中村御所である。
 男はひとまず町の西外れにある一軒の大きな屋敷を訪ねた。
「頼もう、頼もう、主殿はおいでか。」
 と声を張り上げ門をたたいた。
 すると、門の脇窓から若い家人が顔を出し、
「何ぞ、当方に用か。」
 と問うた。
「土居孫太夫殿はおいでか。」
 若い家人は男を見て、いぶかしく思い、
「おぬしのような者がわが主に用などあるまい。早々に立ち去れ。」
 といった。
 男は慌てて、
「これは申し遅れた。それがしは近藤太郎兵衛というものじゃ。以前土居殿とは懇意あって、訪ねてまいったのじゃ。」
 といった。
 ところが、若い家人は近藤太郎兵衛などという男を知らぬ。
「ははあん。さては身の程も知らぬ流れ乞食か、それとも盗人の物見か。偽って金の無心でもしようというのだな。そうはいかぬぞ。立ち去らぬのなら、無礼打ちにするぞ。」
 と罵声を浴びせた。
 男ははっといつもの己ではないことを悟った。
「暫し、これは訳あってのことじゃ。」
「何を言う。その籠が何よりの証拠。それに家々から盗んだ物が入っておろう。」
 と、皮籠を指差した。
「これは・・・」
 と、男は困惑した。
「ほれ見たことか。ほかの者はだませても、この俺をだますことはできまい。そこを動くな。」
 と、若い家人は腰のものに手を掛け、脇戸を開けて飛び出そうとした。
 すると、丁度そこへ屋敷の主、土居孫太夫が通りかかった。
「これ、何を騒いでおる。」
 と、孫太夫が若い家人に声をかけた。
「これは御屋形様、外に怪しい者が居りますので、それがしが成敗しようとしておりました。」
 と、家人は答えた。
「怪しい者とな。」
 孫太夫は小窓に寄り、そこから外を覗くと、「あっ」と声を上げた。
 見紛うこと莫れ。そこに立っていたのは旧知の友、近藤太郎兵衛正時である。
「正時殿ではないか。」
 孫太夫は慌てて脇戸から飛び出て、正時の手をとった。
「お久しゅうございまする。孫太夫殿。」
 と、正時は目に涙を浮かべた。

 五年ぶりの再会である。

「ところでこれはどういうことじゃ。」
 と、孫太夫は正時の恰好に目を見張った。
 正時は背から籠を降ろし、蓋をとると、
「孫太夫殿、これをごらん下され。」
 といった。
 孫太夫は恐る恐る中を覗くと、「はっ」と息を呑んだ。
 籠の中で小さな童が寝息を立てていた。
「これは・・・」
 孫太夫は正時を見やると、正時は跪き、
「千雄丸君にございます。」
 と答えた。
 皮籠の童は土佐の中原、長岡郡岡豊の領主長宗我部宮内少輔元秀の嫡男であった。
 孫太夫は呆気にとられ、しばらく立ちつくしていたが、ふとわれに返り、
「思えば、そなたと最後に会ったは、宮内少輔殿のご嫡男が生まれたときであったな。宮内少輔殿にとってはやっと生まれた乙児ゆえ、祝いの品を持ってわしがそこもとの屋敷を訪れたときのことよ。そなたは宮内少輔殿より御嫡子の守役をたまわり、家禄二百貫の身代となり、時にわしは一条家の家老となり、その晩、たがいに出世の祝い酒を交わしたものであったな。それが今日このような恰好で主従ともに参るとは如何したことか。」
 と訊ねた。
 すると正時は身を振るわせ、
「先日、わが殿は本山、吉良、大平、山田に城を攻められ、討ち死にいたし候。それがしも討ち死にせんと望みましたが、それ叶わず。かくて御所様の御慈悲にすがらんと、この正時、恥を忍び、一子千雄丸君を籠の中に隠し入れ、これにまかり越してございまする。」
 と答えて、頭を深々と下げた。
「なんと、宮内少輔殿はすでにこの世には居られぬか。」
 正時を見ると、頬を涙が伝ったていた。
 孫太夫はふと只ならぬ気がした。
「ところで、それはいつのことぞ。」
「三日前でございまする。」
 と、正時は答えた。
「三日も前のことか・・・」
 ここ中村と正時が仕える長宗我部氏の居城岡豊とは三十里(約100キロ)余離れている。離れているとはいえ、三日もあればすでに知らせが届いていてもよいようなものだが、どういう訳か一切そのような知らせは届いていない。
 ―まさか・・・―
「正時殿、大儀であった。ここまで来ればもう安心じゃ。すぐに御所様のお耳に入れよう。貴殿はわが邸にて参内の準備を致されよ。」
 というと、孫太夫は正時主従を屋敷の奥へ通し、すぐさま御所へと向かった。

 道中、孫太夫の脳裏をよぎったのは隣郷の領主津野氏のことである。
 津野氏は岡豊と中村のちょうど中ほど、高岡郡の大半を領する平安の頃よりつづく豪族である。
 ―さてはこの事態を知らぬのはこの一条家だけか・・・―
 すでにこの中村に敵の間者が潜んでおるやも知れぬ。
 正時が皮籠の中をなかなか明かそうとしなかったのもこのためであったのだろう。
 孫太夫は、土佐の国に漂いはじめた不穏な気配を感じながら、御所の中へと入っていった。


天1章 皮籠(その二) [天海山河]

 土居孫太夫が御所へ出向いて半刻ほど経ったであろうか。
 土居邸に迎えの使者が現れた。
 使者は長宗我部主従を中村御所へといざなった。

 御所の内は東西を中央の小山に隔てられ、東は政所、西は寝殿となっていた。
 正時と千雄丸は寝殿の中広間に通されて、少し待つこととなった。
 この中広間がある寝殿はできたばかりなのだろう。柱も床も鏡のように磨き上げられている。
 ―少々心地が悪いな―
 床板がやや硬く感じられた。
 しばらくして、長い回廊の奥のほうから人声が聞こえてきた。
 孫太夫と土佐一条家の当主、一条房家である。
 正時は以前に一度だけ一条房家と面会したことがある。
 それは房家が土佐一条家の家督を継いだ折、長宗我部氏の使者として正時が祝辞を述べに参内したときであった。
 かれこれ十五年前にもなるが、正時にとってはそれ以来となる。無論、千雄丸にとっては今日が初めてである。
 正時は千雄丸に促して拝謁の礼をとらせた。
 広間の前で足音が止むと、障子がすうと開き、途端、
「こはいかがしたことか。」
 と、やや都訛りの慈悲深い声がした。
 正時はいっそう頭を深く下げ、
「御所様につきましてはまことにご機嫌麗しゅう存じ奉り候。」
 というと、これに続けて千雄丸も、
「御所様はまことにご機嫌麗しゅう存じ奉り候。」
 と、甲高い声で辞令をいった。
 房家は何度も深くうなずき、
「大儀であった。大儀であった。何より無事であったことが大儀であった。よいよい、そのような堅苦しい礼儀はいらぬ。さあさ、両人ともお顔を上げられよ。」
 と、房家は二人に歩み寄り、各々の手をとった。
 そのとき、正時はふっと何か胸につかえていたものがとれたかのように全身の力が抜け、急な眠気に襲われた。
 ―これはいかぬ―
 正時が正気を取り戻そうとすると、傍らの千雄丸が、
「このたびは誠に有難き幸せに存じ奉り候。」
 と、礼を述べた。
「ほほう。さすがは武勇才幹衆に越えると謳われた元秀殿のご嫡子よ。齢幼くとも、栴檀の双葉のごとき芳しさかな。さあさ、そこもとの面をこの房家に見せてたもれや。」
 と、房家は千雄丸を抱き上げた。
 見ればやや色白い丸顔にすっと通った鼻筋と、しなやかに伸びた眉毛の下に黒い瞳が輝いている。
「おお、これがまさしく武士の子よ。なかなかの面構えじゃ。」
 房家はまるでわが子が生まれたかのように、千雄丸を高く抱え上げて大はしゃぎである。
 千雄丸は白粉顔の房家を見て、にっこりと笑った。

「御所様、御所様。千雄丸君をあやすのはまたの機会になさいましょう。それより、宮内少輔殿が亡くなられた経緯を正時殿に詳しゅうお伺いいたしましょう。」
 と、孫太夫がいった。
「おお、そうであった。」 
 房家は千雄丸をゆっくりと床に降ろすと、
「さて、近藤殿、こたびのこと、げにまことに難儀であったな。いったいいかがしたというのじゃ。詳しゅう訳を聞かせてはくれぬか。」 
 と訊ねた。
 正時はおもむろに顔を上げると、その経緯を話し始めた。


 ことの発端はさかのぼること一年前、京の都で起こった事件にある。


 京では時の権力者、細川右京大夫政元が室町幕府の要職、管領に就いていた。
 政元は以前、明応二年(1493年)に起きた、いや、首謀者として起こした「明応の政変」で、十代将軍足利義材を追い落とし、まだ十四歳の足利義尊(後の義澄)を十一代将軍につけた人物である。
 政元はこの政変をきっかけに幕府の幕政を牛耳り、 「半将軍」とあだ名された。
 一方、都を追われた義材は流れ流れて周防、長門の守護大名、大内義興のもとに寄食せねばならぬ有様で、世の人はこれを「流れ公方」と揶揄した。

 しかし、向かうところ敵無しの政元にも、ひとつ重大な欠陥があった。
 それは、奇行である。
 政元は修験道に没頭し、あるとき越後に珍しい土があると聞きつけて、それを食らわんと管領在任中にもかかわらず、一人で越後へ出かけたり、またあるときは、天狗のように空を飛ばんと、着物の袖に羽を縫いつけて、高い木の梢からばたばた羽ばたいて飛び降りてみたりと、やりたい放題であった。
 挙句、政元は大の女嫌いで、修験者は嫁を取らないことにかこつけて、男色を貪り、四十の身になっても独り身であった。
 とどのつまり、細川京兆家(右京大夫の唐名)は跡継ぎ問題に直面してしまったのである。
 ところが、当の政元はどこ吹く風。たいした考えもなく、さっさとこの問題にけりをつけようと、こともあろうに何の血縁関係もない摂家の一つ九条政基の子、聡明丸をもらいうけ、細川澄之と名乗らせて家嫡とした。
 余談ではあるが、澄之をもらいうけるとき、政元は渋る九条政基を熱心に口説いたという。それは、澄之が大層な美男子であったからだという。

 かくして家督問題は一件落着したと思いきや、そうは問屋が卸さなかった。
 何の縁もゆかりもない澄之の家督継承に、細川一族から一斉に非難の声が上がったのである。
 政元は、はじめは反発をしてみたものの、結局一族の意見を聞き入れ、一族の次席である阿波の守護大名、細川義春の子の六郎をもらいうけ細川澄元と名乗らせ家嫡と定めた。
 このとき、政元にとって思わぬ収獲があった。
 それは阿波からやってきた軍勢であった。
 その中には、後に畿内を席巻する三好一族や文武に秀でた篠原一族がいた。
 ―このつわものどもを使わぬ手はない。―
 そう確信した政元は急に欲が出て、早速、澄元と澄之に命じて丹波の守護大名、一色義有を攻めさせた。
 ところが、澄元派と澄之派の将卒どもが陣営に分かれていがみ合い、たいした軍勢もいない一色勢に敗北してしまったのである。
 このとき澄元も澄之も二十歳に満たない若者であった。
 政元はこれでは心もとないと、二人の養子よりも五つ年上で戦歴豊富な細川高国に目をつけた。そして、野州家の細川政春から新たに養子としてもらいうけ、これを澄元の後見としたのである。

 ところが、このことが澄之派に火をつけてしまった。
 以前から、澄之派の有力被官である香西元長と薬師寺長忠は阿波のなり上がり者が気にくわなかった。その上、有能な高国が澄元の後見となってしまえば、細川京兆家は阿波のなり上がり者にを乗っ取られてしまう。
 そこで香西元長と薬師寺長忠は一計を謀り、密かに政元の警護を務める竹田孫七という男を呼び寄せて、買収した。

 永正四年(1504年)六月二十三日、ついに事件は起きた。

 政元が湯殿で行水をしているところ、突如、竹田孫七が斬りかかり、政元は抗することもできずに斬られてしまったのである。
 謀反は成功したかのように思われたが、そのわずか四十日ほどで澄之は澄元・高国と戦って敗死してしまい、今度は澄元と高国が反目し、事態は容易に収拾し得なかった。
 すると、その隙を突いて大内義興が足利義材を奉じて上洛し、足利義澄を京から追い出して、義材(この後、義稙)を再び将軍に据えてしまったのである。
 政元の暗殺事件は前将軍が再就任するという天下未曾有の事態に至ったのである。

 これが世にいう「永正の錯乱」である。

 ここ土佐は細川京兆家の領国であった。
 時代は運命の糸を絡め取っていくかのように、この土佐を騒乱の渦へと呑み込んでゆくのである。

 間もなくして、土佐長岡郡にある田村の守護所(現在、高知竜馬空港辺り)から守護代細川勝益は立ち去った。
 この状況に一人北そ笑む者がいた・・・。


天1章 皮籠(その三) [天海山河]

―土佐ノ国七郡、大名七人、御所一人ト申セシハ、一條殿一万六千貫、津野五千貫、吉良五千貫、大比良四千貫、本山五千貫、安喜五千貫、香宗我部四千貫、長宗我部三千貫。以上八人之内一條殿ハ格別、残リ七人守護ト申。― 『長元記』より*

 土佐長岡郡の北辺に四方を険しい山に囲まれた本山郷という小さな集落がある。四国三郎の異名をもつ吉野川もここにあってはまだ幼い。
 土佐は南国とはいえ、ここ本山郷は冬の季節には雪に閉ざされるほどの寒冷の地である。
 そこを治める本山左近太夫養明はかねがね土佐中原をこの手にしたいと野心を抱いていた。
 ところが、厄介なことが一つあった。
 それは、中原への入り口に細川氏の有力被官である長宗我部氏の居城岡豊城があることだった。今日では本山町の嶺北地方から高知市に抜ける国道32号線が岡豊城址の裏手を通っており、岡豊はまさに交通の要衝となっている。
 長宗我部氏の身代はわずか三千貫(およそ九千石)にすぎない。五千貫(およそ一万五千石)の養明の力を持ってすれば、敵わぬ相手ではない。
 しかし、守護代細川勝益の後ろ盾があってはそうはゆかぬ。
「虎の威を借るきつねとはこのことよ。忌々しい元秀め。」
 本山養明はその存在を疎ましく思っていた。
 そこへ、家老の長越前があわてて飛び込んできた。
「お屋形様、朗報ですぞ。昨日、細川勝益殿が京へ退去なされたとのことにございます。」
「なに、それは誠か。」
「誠にございます。どうやら京にてご一族に内訌が生じた模様にございます。」
「ほう、これは願ったり叶ったりじゃ。」
 ―お家のいざこざともなれば、細川勝益は当分帰ってこないであろう。―
 そう思うと、養明は胸を昂ぶらせたが、ぐっとそこは押し殺し、
「越前よ、そなたはわしの心中を存じておろう。よいか、時は今をおいてほかにない。勝益殿が京にあるうちに、元秀を討つのじゃ。されど、ことは慎重のうえに慎重に運ばねばならぬ。まずは中原の諸将の動向をうかがい、そのなかでわれらに味方するものがあれば同盟を結べ。」
 といった。
 すると長越前は、
「では、ご本家も、でござりまするか。」
 と尋ねた。
 本家とは吉良氏のことである。
 そもそも本山氏は吉良氏の庶流であり、本姓を八木といった。応仁の頃、養明の父である八木伊典が本山郷に勢力を伸ばし、諸豪族を従えて家を興したのが本山氏の始まりである。そのため、守護の細川氏からは被官として認められず、あくまで吉良氏の与力という扱いであった。
 その最たる扱いが先年に起こった。
 守護代細川勝益は長宗我部元秀に命じて、鴨部というとこにある社を修繕するように命じた。元秀は宮内少輔という官位にもあるように寺社仏閣を管理する奉行であった。
 元秀は早速、吉良氏、大平氏を誘い、その任にあったが、鴨部の地はそもそも八木氏の領地であったにもかかわらず、養明にはなんの断りもなかった。
 養明は激憤したがどうにもならず、以前にもまして元秀を恨むようになったのである。
「もちろんじゃ。」
 本家、吉良駿河守宣忠はまだ若く、養明にとって手玉に取ることはたやすいことである。
 長越前はうなづき、早速出かけようとっすると、養明が呼び止めて、
「待て待て、一条には知られぬようことを運べ、一条と長宗我部は代々入魂の仲じゃ。ことが露見すればきっと元秀に味方し、計略が水の泡となろう。そうじゃ、津野殿をなにがなんでも味方につけよ。津野殿なら一条を疎ましく思っておるはずじゃ。きっとわれらに味方するであろう。」
 といって、長越前を奔らせた。

 すると、姫野々城主の津野刑部少輔元実や吉良宣忠は案の定のこと、高岡郡蓮池城の大平山城守元国、長岡郡大津城の天竺孫十郎花氏が養明に同意し、さらに思わぬことに、元秀の義兄にあたる香美郡山田城の山田治部少輔基通までもが賛同したのである。
「でかした、越前。この計略が叶いし時はそなたに五百、いや一千貫を与えようぞ。」
 と、養明は長越前を絶賛した。
「有難き幸せ。」
 と、長越前は返した。
 養明は、
「して、いかにして山田治部少輔を引き入れたのじゃ。」
 と訊ねると、長越前は少々苦笑いして、
「実は山田殿には吸江庵の寺奉行の職を与えると申し出たところ、ひょいと話に乗ってきたのでございます。」
 といった。
 それを聞いて、養明も苦笑いした。
 吸江庵の寺奉行は養明も欲した職である。
 この吸江庵は『土佐日記』でも知られる大津の湊の南にあり、南海きっての名刹と謳われた寺である。開祖は鎌倉時代の末期、天下の高僧、夢窓疎石である。
 夢窓疎石は時の権力者、執権北条高時の勘気をこうむって命を狙われたため、土佐に逃れてきた。その折、この地に庵をむすんで数年を過ごし、のちに寺となった。五山文学で知られる義堂周神や絶海中津を輩出したのもこの寺である。
 ところが、建武の頃に狼藉するものが現れて、寺は荒廃し、それを聞いた足利尊氏は香美郡香宗城主の香宗我部(こうそがべ)秀頼と長宗我部信能(のぶよし)に狼藉者の追討を命じた。
 これを契機に長宗我部氏は尊氏の一目置くところとなり、のちに土佐へ入部した細川氏の有力被官となったのである。
 以来、長宗我部氏は吸江庵の寺奉行となり、これが長宗我部氏にとって大きな力を与えるきっかけになった。
 それはこの寺からあがる祠堂銭(しどうせん)である。
 祠堂銭は寺の修繕などに使われるもので、長宗我部氏は毎年土佐中の諸将に課していた。無論、これに利子をてけて貸し付けることもできたため、長宗我部氏の権威は身代以上に高くなったのである。
「さらに・・・」
 と、長越前は続けた。
「天竺殿も寺奉行の職を所望しておられまする。」
 といった。
 こうなっては養明も笑うしかない。
 確かに、天竺氏は一度この寺の奉行についたことがある。
 元秀の祖父文兼は、嫡子元門と身代をめぐってお家騒動に陥った。文兼はなんとか元門を追放して次子の雄親(かつちか)を家嫡としたが、細川氏からその騒動の責任をとわれて奉行の職を退いた。このとき奉行となったのが細川氏の門葉、天竺氏であった。
 養明は、
「ははは、これは越前の二枚舌か。山田は三千貫、天竺は五百貫の身代、一千貫の土地よりも吸江の庵というが、そのような小さき獲物などくれてやろう。わしの狙いはこの土佐そのものよ。それに今となっては京の将軍にその力なく、細川殿も不在じゃ。あの寺にかつてほどの意味はない。おぬしもそれを見越してのことであろう。それよりそなたがばつの悪いのは、むしろ山田と天竺のことじゃな。よいよい、わしに任せておけ。」
 と、長越前をねぎらってやった。
 

*『長元記』
  立石正賀著。長宗我部元親の家臣。のち、細川忠興に千五百石で仕える。 

天2章 岡豊炎城(その一) [天海山河]

 
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 土佐の中原、香長平野のど真中に、まるで離れ島のようにぽかりと突き出た小山がある。その上に小さな物見櫓のついた城が見える。
 それが長宗我部氏の居城、岡豊城である。
 麓には石清水(いわしみず)川が山をかすめるかのように流れ、あたり一面に田園が広がっている。そのなんとも長閑な風景が、乱世を偲ばせるにはほど遠い感がある。
 
 しかし、「岡」に「豊」で「おこう」とはなんとも不可思議な地名である。
 その由来については諸説あるが、平安の頃、この山の東に土佐の国衙(こくが)があった。
 当時、このあたりはだだっ広い荒野で、京からやってきた国司たちにとっては案内知らぬ遠国の地である。彷徨わぬよう、この山を目印とし、山の頂に豊岡上天神社を祀って、五穀豊穣を願った。そのためこの山を「岡の府」と呼び、転じて「オカフ山」と呼ぶようになった。すると、「カフ」は当時「コウ」と発するため、いつしか「オコウ」と呼ばれるようになり、その呼び名に社の名から「豊」の字を当てて、「岡豊山」となったという。
 
 さて、細川勝益の退去後、土佐はまるで何もなかったかのように平穏な日々が過ぎていた。
 永正五年六月、長宗我部宮内少輔元秀は老臣中島采女と領内を見回っていた。
「お屋形様、今年も米がたんと実りましたな。」
 と、采女がいった。
「采女よ、そなた齢はいくつになる。」
 と、元秀が訊ねた。
「そうですな。さきの戦はたしか応仁の戦でございましたかな。それがしが雄親公の初陣に付き添いましたのがそのころ、ええと・・・かれこれ・・・」
 と、采女は指をおり始めた。
「ははは、采女もそろそろ隠居じゃな。よく見よ、穂はまだ青いではないか。」
 と、元秀は笑った。
 すると采女は、
「いやはや、この采女、もはや腹が減って待てませぬ。」
 といって、太った腹をたたいて見せた。
「相変わらず、そなたは年をとってもまだ気だけは若いようじゃな。」
 と、元秀はあきれ返ってしまった。
 采女がそう言いたくなるのも無理はない。このあたりはぐるっと青い稲の海原が広がり、秋には黄金色の大地となって、土佐随一の実りを迎える。
 南の丘から吹き込むそよ風は稲群を薙いで、独特の青臭さを含んでいた。
―今年もよく実りそうだな。―
 元秀はそう思った。
 
 元秀は城へ戻ろうと振り返ったときである。西の山の端に煙が立ち上っているのが見えた。
「采女、あれを見よ。」
 と、元秀が指差した。
「はて、少々尋常ではありませぬな。薊野(あぞの)のあたりでございましょうか。」
 と、采女はいった。
 すると、城のほうからこちらへ向けて駆けてくる者がある。
 近藤正時である。
「お屋形様、早う城へお戻りを。本山が攻めてまいりましたぞ。」
 元秀は馬で駆け寄り、
「それはまことか。」
 と訊ねた。
 正時は息を切らせながら、
「まことにございます。吉良、大平もおりますぞ。案内は天竺と思われまする。」
 と答えた。
「さては謀られたか。」
 元秀は立ち上る煙に視線を向けた。
「して、山田殿へ援軍は頼んだか。」
 と、元秀が問うた。
「それが、領境にて使者が斬られた模様でございます。」
 と、正時は即座に答えた。
 元秀は思わず手に持っていた鞭をへし折った。
「どうやら何も知らぬのはわし一人か。」
 と、己の不覚を悔やんだ。
 しかし、こうしては居れぬ。元秀は土佐中原にその名をとどろかす武勇の士である。まざまざとやられる訳にはいかない。
「ならば、一戦に及んで蹴散らしてくれる。正時よ、ある限りの兵を集めよ。」
 というと、元秀は城へと馬を走らせた。

 城に戻ると、妻の千歳と娘の亜奈姫が甲冑を整えて待っていた。
「お帰りなさりませ。」
 と、千歳が出迎えた。
「大儀である。着せつけてくれ。」
 元秀はすばやく甲冑を身にまとった。 
 千歳は鎧の緒を締め終えると、元秀の前に進み出て、ひざまずいた。
「千歳、なにをしておる。」
 元秀が問うた。
 千歳は、
「このたびの戦、すべては兄の不心得によるもの。どうぞ、わたくしめにもお咎めを。」
 といった。
「なにをいう、そなたに罪はない。それより、そなたはわしになにかあれば、兄を頼るのじゃ。」
 と、元秀はいった。
「兄など頼りませぬ。わたくしはあなた様の妻でございます。千雄丸もございます。もし、夫になにかあるときは代わって家を守るのが妻の役目です。」
 と、千歳は断じた。

―千歳はそういう女だ。―

 もう十五年も前のことになる。
 元秀は二十の半ばを過ぎたというのにまだ嫁をとっていなかった。
 ある日、馬を走らせ物部川のほとりまで出向いたとき、馬に水を飲ませようと川端に下り立った。
 そのとき足元から一羽の鴨が空へと舞い上がった。
 すると、川向こうに一人の若い侍が現われて、馬上より矢を放った。
 矢は見事に鴨に当たり、鴨は宙をくるくると舞いながら元秀の足元に落ちた。
 元秀はそれを持ち上げ、
「見事なお手前。」
 というと、若い侍は下馬して、唐笠を取った。
 元秀はその目を疑った。
 若い侍は男の装いをしているが、後ろへ束ねられた長い髪と色白く目鼻立ちのすっきりした表情の女が立っていたのである。
 女は元秀に向かって一礼し、
「それはあなたに差上げます。かように水が深くては渡れませぬゆえ。」
 というと、再び馬に乗り、立ち去ろうとした。
 元秀はあわてて、
「それがしは長宗我部弥三郎と申す者じゃ。そなたは名をなんと申す。」
 と訊ねた。 
 女は振り返り、
「千歳、山田千歳と申します。」
 と言い残して、去って行った。
 千歳はこの辺りでは知られたじゃじゃ馬で、このとき、十七の歳であったがいまだに嫁のもらい手がなかった。
「あれが千歳か。」
 元秀は千歳に魅入らされてしまった。
―あれこそわが妻にふさわしい。―
 そう思い、元秀はみずから山田氏のもとへ出向いて、千歳を娶ったのである。

「父上、太刀をお佩きになさりませ。」
 と、亜奈姫が太刀を差し出した。亜奈姫は十四の歳である。
 元秀は太刀を受け取り、
「亜奈もそろそろ嫁に行くとしであったな。」
 と言い残し、馬出へと向かった。

 馬出にはすでに兵が集まり、意気揚々としている。
「お屋形様、兵五百がそろいましてございます。」
 と、正時がいった。
「それだけあれば十分じゃ。」
 元秀は、物見櫓に駆け上がり、城下を見下ろした。
 敵は城の西南、中島村あたりで乱捕りを働いている。
―二千、いや三千か。―
 元秀は、物見櫓から駆け下りると、馬に飛び乗り、
「いざゆかん。われにつづけ。」
 と、真っ先に城を飛び出した。

 長宗我部勢は桑名丹後、中内藤兵衛、久武肥後守忠光など、名うての猛将ぞろいである。
 一気に石清水川を渡り終えると、小籠(こごめ)村辺りに川を背にして雁行の陣を張った。
 その素早い動きに、本山養明は、
「なかなかの陣容じゃ。大敵を見ても恐れぬとは、さすが元秀、武勇才幹衆に越えたる将の器。」
 と、感心し、長越前に向かって、
「越前、陣を数段に構えよ。」
 と、下知した。
 本山勢は大軍である。陣構えにぐずついていると、空かさず長宗我部勢が陣を蹴って、攻めかかってきた。
 本山勢は虚を突かれて隊を崩し、総崩れとなった。
 養明は堪らず、本陣を八町引いて立て直した。
「敵は小勢ぞ、押し返して元秀の首をとれ。」
 と、養明が檄を飛ばし、本山勢が反撃に出た。
 小籠村には土煙が舞い上がり、両軍しのぎを削っての大戦となった。
 しかし、多勢に無勢。長宗我部勢は次第に押され、逃げ出した。
「逃がすな、追え、追え。」
 本山勢はそのあとを追った。
 長宗我部が川を渡って逃げようとすると、本山勢は功を競って我先にと川の中に入っていった。
 ところが、川底はぬるぬるとして足をとられ、なかなか前へ進めない。
 川の半ばでまごついていると、対岸から、
「撃て。」
 と、元秀の声がこだました。
 すると、岸の草むらから伏兵が現われ、一斉に矢が放たれた。
 血飛沫が宙に舞い、川面はぱっと朱に染まった。
 本山勢はあわてて後ずさりしたが、大軍が災いして、なかなか退くことができない。
 矢は雨霰のごとく射掛けられ、川中は阿鼻叫喚の巷と化した。足を滑らせ深みにはまり、溺れ死ぬ者が後を絶たない。
 やっと川岸に上がって振り返ると、川中に二百余もの屍をさらしていた。
 本山勢は元秀を恐れて、川を渡ろうとするものは誰一人としていなかった。
 元秀はそれを見て、勝ち鬨を上げながら城へと帰っていった
 
 

天2章 岡豊炎城(その二) [天海山河]

 機先に勝ちを収めた元秀であったが、中内藤兵衛、久武忠光など多くの将卒を討たれて、とても晴れがましい気分にはなれなかった。
 そのうえ本山勢は野営を張って城を幾重にも囲み、元秀を籠城へと追い込んだ。
 元秀にとって頼みの綱は、東の仙頭(せんとう)氏と西の一条氏であったが、東は山田基通に韮生口(香美市香北町)を遮られ、西は津野元実に使者をからめとられる有様であった。
 さらに養明は城方の士気を挫くべく、家来に実りはじめた稲を刈り取らせた。
 稲薙ぎである。
 城方は堪らず、飛び出してこれを防ごうとすると、寄せ手に待ってましたとばかりに矢を射かけられ、いたずらに犠牲を増やすだけであった。

 籠城すること二十日ばかり、ついに城の兵糧が尽きた。援軍の姿も地平の彼方にさえ見えなかった。
―このまま籠城しても無為である。―
 元秀は、正時を呼んでこう打ち明けた。
「わしは明日出陣して、討ち死にする。そなたはわが子千雄丸を連れて今宵城を抜けよ。」
 それを聞いた正時は、
「なにを仰せでございしょう。この正時めにはご最期のお供を仰せ付けくださりませ。それがしはお屋形様のおかげで二百貫扶持に取り立てられた身でございます。その恩沢に今報わずしていつ報えましょうか。そのお役目は他の者に仰せ付けくださいませ。」
 と、首を横に振った。
 正時がいごっそ(頑固者)であることは元秀も十分心得ている。しかし、この期に至っては元秀も引くわけにはいかぬ。
 正時をぐっと見据えて、
「そなたに二百貫を与えたは、千雄丸を守らしめんがため。そのこと忘れてはならぬ。そなたは千雄丸を抱きなんとしてもこの重囲を抜け、一条殿にまみえて、『元秀、武運尽きてこのたび討ち死に候。最後に申し置き、この子を君に参らせ候。』と申せ。これこそがわしへの忠勤というべきものぞ。」
 というと、さすがの正時も理に服して、
「それがしはご最期のお供を仕ることを願って居りましたが、生を全うして天命を待つは成り難く、死を軽うして節を守ることは容易きこと。ならば、この正時は是が非でもこの重囲を抜け、千雄丸様を守り立てて御家の再興を叶えましょうぞ。」
 といって、涙を流した。
 元秀も正時とこのような別れになるのは辛い。
 元秀は、
「正時、よくぞ申した。まこと頼もしき言葉かな。もう思い残すことはない。千雄丸をこれへ連れてきてはくれぬか。」
 と、呼びにやった。
 正時は元秀が幼少の頃よりそばにあった小姓であった。先年、千雄丸が生まれたとき、守役としてそばにつけて二百貫を扶持したのである。

 しばらくして、正時が千雄丸を連れてやってきた。
 千雄丸はまだ数えで六歳である。
 元秀は千雄丸を抱き上げて、
「よいか千雄丸よ。そなたは幼少といえども、父がことばをよく聞け。極楽の迦陵頻伽(かりょうびんが)は卵の内にあってその声は衆鳥に勝るという。そなたは健やかに成長して廃れる家を興し、仇敵を滅ぼし、会稽の恥を雪げ。それがわしへのただ一つの弔いと心得よ。」
 と、涙ながらにいった。
 千雄丸は大きくこくりと頷いた。
 元秀はそれを見て、千雄丸を正時にさっと譲り渡した。
 するとそこへ、千歳が駆け込んできた。
「千雄。」
「お母上。」
 千雄丸は正時の腕を振りほどいて、千歳に駆け寄った。
「これ、千歳、・・・」
 と、元秀がいったが、正時は、
「お屋形様、奥方様にも最後のお別れを。」
 とささやいて、諭した。

「ああ、千雄よ・・・。」
 千歳は千雄丸をひざの上に抱きかかえると、そぞろに髪を掻き撫でた。
 幼子の髪は絹のように柔らかい。ものの分別も付かぬうちに、家の再興を託さねばならぬことほど哀れなことはない。
 そう思うと、袖を伝って涙がこぼれ落ちた。
「お母上、どこかお悪いのですか。さてはお腹を痛められましたか。千雄がお薬を取ってきて差し上げましょう。」 
 と、千歳の腕を解こうとした。
 千歳は、
「いいえ、母はどこも痛みませぬ。」
 といって、千雄丸の顔を覗き込んだ。
「では、なぜ泣いておられまするか。」
 と、千雄丸が訊ねた。
 千歳は、
「そなたを慮ってのことじゃ。ここに居っては敵に攻められ、日夜心も休まらぬ。かようなところに居るよりは一条様のところに居るほうがよい。千雄よ、よく聞かれよ。一条様のところへ行けば、よく宮仕えいたすのですよ。悪戯はなりませぬぞ。大人しくいたされよ。御近習も多いことでしょう。けっして供ばらに恨まれてはなりませぬぞ。また、文を習いなされ。歳に従い弓を習い、馬に乗られよ。一条様のところでは詩の遊びや月見の宴も多いことでしょう。されど、それに興じますな。よろしいですね。」
 といい終えると、千雄丸を正時にそっと預け、涙を袖で払った。
「では正時殿、千雄のことお頼み申します。」  
 といって、千歳は頭を下げた。
 正時は畏まり、
「奥方様、お顔を上げてくだされ。正時、奥方様のご恩は終生忘れませぬ。必ずや千雄丸様を御所にお連れし、いつかかならずこの岡豊に戻ってまいりまする。」
 といった。
 千歳は顔を上げ、やさしく頷くと、
「千雄。道中、正時殿を困らせてはなりませぬぞ。」
 と微笑みかけた。
「畏まりました。」
 と、千雄丸は返すと、正時が用意した皮籠の中に身を隠した。
 正時は振り売りに扮して、皮籠を背負うと、
「ではこれが今生の別れにございまする。」
 と一礼し、闇夜に消えていった。

 その夜、元秀は家臣らを広間に呼び集めた。
「お屋形様、最後のご決断でございまするか。」
 と、采女がいった。
 元秀は肯き、
「その前にみなに申しておくべきことがある。」
 というと、家臣一同、耳を傾けた。
「こたびの戦、この元秀、そなたらの働きに目を見張るものがあった。まさに一騎当千というべし。そなたらをもってすれば、敵の重囲を破ることもできよう。されど、わしが思うに、敵は本山のみにあらず。津野、香宗我部までもが敵じゃ。たとえどこかに身を隠そうとも、かの者ら草の根分けても捜すであろう。敵の刃にかかるよりは、明朝一戦に及んで討ち死にいたすと心定めた。さて、ここに一子千雄丸を残し置く。そなたらは今宵のうちに城を落ち、千雄丸が再興の折にはこれに従い守り立てよ。さあ、早う出立いたせ。」
 といった。
 家臣らは互いに顔を見合わせ静まりかえった。
 すると、采女が進み出て、
「お屋形様、それがしのような老いぼれは若君のお役には到底立てませぬ。その役目は若き者に任せ、この老いぼれをお屋形様のご最期のお供にお付けくだされ。ほかにも望むものあれば、進み出よ。」
 というと、老臣五十三名が進み出た。
 采女は、若い者どもに向かい、
「若き者どもはたとえ匹夫になろうとも生き残り、若君のために尽くされよ。」
 というと、老臣どもと夫婦(めおと)の別れ、兄弟の別れ、父子の別れを済ませ、次から次に城を落ちていった。

 最後の一人が去ると、城の中はしんと静まりかえった。
 元秀は老臣どもを集め、最期の杯をとらせた。
「お屋形様から大杯をいただくとは、誉も誉れの極みでござる。」
 と、采女は杯を高く掲げると、三度傾けて飲み干した。
 杯は次から次へとまわされ、まわり終わると、酔いがまわったわけでもないのに、老臣どもは虚ろな表情を浮かべていた。
「これ、みなの衆。気遅れしてはならぬぞ。明日はお屋形様と黄泉への旅立ち。再び同じ蓮の花に生まれんことこそ幸せぞ。やれ、こう湿気っては酒もまずい。それがしが一差し舞わん。だれぞ、囃子立ててくれ。」
 と、采女が舞いはじめた。
 元秀はみずから小鼓をとると、野田太郎衛門が太鼓をたたき、桑名丹後が笛を吹いて囃し立てた。
 その音色は城下まで響き、養明の陣幕まで届いた。

 その夜、養明は山田基通と酒を酌み交わしていた。
 基通はすこぶる酔っていた。
 城から聞こえてくるお囃子に、突如床几から立ち上がり、
「なんと、宮内少輔めはこの期に及んで遊興とは、ふてぶてしいかな。夜攻めにしてくれる・・・」 
 というと、ふらふらと気を失って、へたれこんだ。
―やれやれ、なんと風流の心得がないものか。―
 と、養明は基通を尻目にお囃子に耳を傾けた。

~~これは~かなしき~もの~がたり~・・・・・・・これが~さいごの~かねひらのしぎ~かねひらのしぎ~・・・~~

 聞こえてきたのは木曽義仲の猛将、今井兼平の最期を語る『兼平のきり』であった。
 養明は家臣を呼び、
「明朝、総攻めいたせ。」
 と下知した。
 養明はやおら立ち上がり、
「さすがは中原に覇を唱えし武士(もののふ)よ。風流の心得までもおわせられるか。元秀殿、これが最期でござる。」
 というと、杯を城に向かって高々と掲げ、ぐいっと一気に飲み干した。
 

 東の山際に東雲がさす頃、元秀は老臣どもを引き連れて、城から打って出た。
 坂の下からは寄せ手が鬨の声を上げて駆け上がってきた。
 大手口で干戈を交え、打ち合うこと数度。長宗我部勢は最後の力を絞って戦ったが、衆寡敵せず、城門の際まで追い詰められた。
 元秀はもはやこれまでと、千歳と亜奈姫を伴って櫓にこもり、火を放って自害した。
 元秀、四十二、千歳、三十二、亜奈姫、十四の生涯であった。
 櫓から出た火は風にあおられ燃え広がり、炎となって天を焦がした。
 

天3章 桃華の人(その一) [天海山河]

 正時が語り終えると、一条房家は扇子で顔を覆い、涙を流した。
 磨き上げられた床の上に、ぽたりぽたりと涙がこぼれ落ちる。
 房家はおもむろに千雄丸に目を向けると、その姿がふと幼き頃の己と重なった。

 房家の父、前関白一条教房は京で起きた応仁の乱を避けて、奈良の成就院に身を寄せていた。奈良には興福寺大乗院門跡である弟の尋尊が居り、教房は房家の祖父、一条兼良を伴い疎開したのである。
 この教房と兼良、そして尋尊はそれぞれ個性的な性格をもった親子であった。
 兼良は「その博学多才ぶりは菅原道真よりもすぐれている」との伝説さえ生んだ人物であり、四代将軍足利義持が『白馬節会』の白馬をなぜ「あをうま」と読むのかと訊ねたとき、居並ぶ学者を尻目にまだ十八歳の兼良は宇多法皇の日記『寛平御記』を引いて答えてしまったという。このときそこに居合わせた後花園天皇の父、後崇光院が絶賛し、以降、兼良はとんとん拍子に階位を駆け上がり、摂政関白を歴任し、准三宮の宣下を受けて、位人臣を極めた。そのせいか自尊心が高く、下克上の世俗には否定的であった。
 その当時こんな逸話が宮中に残っている。

 ある大臣がある武士を前にして、故実、先例を引いて時代を批判した。
 するとある武士は、
「公家は先例を重視するあまり、衰微して、武家に天下を奪われたのだ。今後は時世を充分に知るべきだ。」
 と返して、意にかえさなかった。
 それを聞いて、ある大臣は怒ってその場を立ち去ってしまった。
 ある大臣の名は伝わってはいない。しかし、故実、先例を引く大臣は兼良そのものの姿であり、また、唯一ある武士に面を切ってそう批判できる者は彼を置いて他にはいない。なぜなら、ある武士の名は伝わっているからである。その名は幕内一の実力者、山名宗全である。
 そんな兼良だが、その才識は人の目を惹くものがあり、武家との交友も広かった。日野富子、管領の細川政元をはじめ、伊勢の国司大名北畠教具や周防の守護大名大内政弘、さらには後に美濃騒乱のきっかけをつくった斎藤妙椿などが居り、特に妙椿は兼良が奈良にあったときもそこを訪れたという。この妙椿とのかかわりが後に長宗我部氏にとって重要な意味を持つこととなるのだが、それは後に綴るとする。
 さらにたいそうな精力家であり、『公事根源』『花鳥余情』『新式今案』『藤川の記』など多くの書物をあらわし、子女の数も二十六人と桁外れであった。無論、大乱中も奈良でそれまでと変わらぬ生活をしていたという。
 だが、くしくもこの大乱が起きたときの関白が兼良であったから、一条氏と応仁の乱は歴史上切っても切れない関係にあったということになる。
 一方、尋尊は『大乗院寺社雑事記』に山城の国で起きた土一揆を「日本開白(開闢)以来土民蜂起是初也(日本が始まって以来土民の蜂起はこれが初めてである)」と記したように、下克上の世相を嫌い、応仁の乱中、大儀を行い、殿舎造営、遊楽を捨てず、兼良とともに一条氏としての誇りを守り通したという。
 これに対し、教房はやや柔軟な物の考えができる人物のようであった。
 一年の疎開生活で家領からの年貢も滞り、あっという間に生活が切迫した。
 そこで教房は家領への下向を考えたのだった。
 教房はまず嫡男の大納言一条政房を摂津の福原の庄に赴かせ、自身は兼良とともに土佐幡多の庄に下向しようとした。しかし、土佐は遠流の地である。兼良が承服するはずもなく、兼良を置いて行くこととなった。

 応仁二年(1468年)九月六日、奈良の成就院を出て、堺から土佐の国人、大平国豊の船で土佐へ向かった。
 大平国豊は教房の妻、宣司殿の縁者であったという。
 航海はおおむね順調に進み、途中、大平氏の湊、宇佐で家人の一人が船から落ちて怪我をしたため、その回復を待つ間しばらく逗留することとなったが、教房一向は無事に家領の幡多の庄に着いた。
 降り立ったところは清水という湊であった。そこは一条氏とかかわりの深い金剛福寺に近く、清水の領主、加久見宗孝も好意的であった。しかし、清水は幡多の庄の舳先のようなところであり、如何せん、屋敷を構えるには土地が狭い。
 そこで、渡川(四万十川)と寺後川(後川)の中洲に目をつけた。
 そこはまるで京の都を彷彿とさせるような風景だった。
 教房は渡川を桂川に寺後川を鴨川に見立て、東の山を左岡、西の山を右山と名づけ、森山という小山を中心に屋敷を構えそこに住んだ。
 また、町の造営にも着手し、碁盤目状に配された通りには九十軒の軒が並び、右山の麓には石清水八幡宮より勧請した不破八幡宮を造営した。
 着々と家領の回復が進む最中、悲しい出来事が起きた。
 文明元年(1469年)、福原にいた一人息子の政房があの山名宗全と赤松政則との戦闘に巻き込まれ、命を失ってしまったのである。殺したのは赤松氏の家来であったが、赤松政則は兼良と交友があったため、その家来は切腹したという。
 その死は衝撃的なものであったのだろう。帝は兼良に弔辞を送り、禁裏は喪に服した。
 兼良は、
「とても死ぬる命をいかに武士の家に生まれぬことぞ悔しき。」
 と悲しみ、摂家一条氏の跡目がいなくなったため、二十三番目の子冬良を政房の養子として家を継がせることにした。
 このとき、冬良はまだ六歳であったため、老い先短い兼良は政が絶えてはなるまいと、書き表わしたのが『桃華蘂葉(とうかずいよう)』である。桃華とは一条氏を表す花のことで、その書物には故実、禁裏仙洞への書式のほか、子弟入門の寺院や家領の由緒など家にかかわる諸事が事細かに記されている。
 知らせを受け取った教房もまた深く悲しんだ。殊に、妻の宣司殿には堪えたのだろう。その後間もなくこの世を去った。
 不幸続きの教房であったが、ずっと悲しんでばかりいられない。まだ家領の回復は道半ばなのである。近隣の土豪には教房に従わぬ者もいる。
 教房は朝廷に働きかけて土豪らに官位を与えて懐柔した。そして、加久見宗孝の娘を一族の町顕卿の養女としたのち側室とした。その側室は中納言の局と呼ばれた。
 文明七年(1475年)、教房と中納言の局との間に一人の男の子が生まれた。
 名は万千代丸と付けられた。後の房家である。
 

天3章 桃華の人 (その二) [天海山河]

 万千代丸は当初から土佐の家領を受け継ぐ者として考えられていたわけではなかった。
 そもそも、教房の土佐下向は家領の回復という一時的なものであったからだ。
 一条氏の家督はすでに弟の冬良と決まっており、万千代丸は七歳になれば一条氏の先例に従って、尋尊の孫弟子として興福寺大乗院に入門することが決まっていた。
 ところが、文明十二年(1480年)、突如として父、教房が五十八歳でこの世を去った。兼良に先立ってである。遺骸は為松山の北麓に葬られ、以後、そこを奥御前と呼ぶようになった。

 さて、しばらくすると、教房の威光に従っていた土豪たちの中から自立を目指す者が現われ、幡多の庄内に不穏な空気が立ち込め始めた。
 それを察した兼良は、まだ五歳の万千代丸に入門を前倒しするよう勧めたが、この話が返って領内に不安をもたらし、ついには家老と在郷領主とが争い始めたのである。
 戦禍は中村にも及び、中納言の局は万千代丸を伴って、里の金剛福寺に身を隠した。
 房家の疎開生活の始まりである。
 一年経っても中村の騒乱は収まらず、上方への船も出せない有様であった。見兼ねた岳父、加久見宗孝は二人を清水に呼び寄せて匿った。
 疎開生活は十年に及び、ついには万千代丸の出家は事止みとなってしまったのである。
 すでにこのとき、兼良も教房の死から一年後にこの世を去っていた。「一天無双の才」、「五百年来の学者」と謳われた八十歳の天寿であった。
 万千代丸は加久見宗孝を烏帽子親に亡父教房から一字をもらい、房家と名乗って中村に帰った。
 房家、十八のときであった。それから十六年が経った。

―肩身の狭き幼少を過ごしたものじゃ。―
 房家は袖で涙をぬぐった。
 すぐにでも千雄丸を岡豊に帰してやりたいと思った。
 しかし、ふと房家の脳裏にあることが浮かんだ。
―千雄丸を土佐の中原に帰しては、後々国中に騒乱が広がるのでは・・・。この中村も例外ではない。ならば父母の菩提を弔って、このまま出家させてはどうか・・・。しかし・・・―
 房家には長宗我部氏に対して恩がある。
 それは、房家が晴れて土佐一条家を興した時、細川氏との縁もあって、真っ先に房家を土佐の国司として崇めたのは有力被官の長宗我部雄親であった。
 従来、土佐には国の主が在土していなかったこともあり、房家は土佐の国司として相応しかったのである。
―主従はこの房家を頼って庇護を求めて来たというに、出家せよとはかの恩を忘れたことになろう。ここは庇護し、千雄丸の行く末は後々考えるといたそう。―
 と、房家は考え、
「千雄丸殿に正時殿、ご安心めされよ。この房家、確かに宮内少輔殿の遺言、たまわった。千雄丸殿はこの手で預かるといたそう。これからはここを我が家と思うて遠慮せずくつろいでたもれ。」
 といった。
 正時は悦び、
「有難き幸せに候。ではそれがしは亡き主のため、出家をいたし、菩提を弔おうと存じまする。」
 といった。
「いやいや、宮内少輔殿の追善供養はこの房家が執り行おう。長宗我部家には先年の恩義がある。そこもとは引き続き、千雄丸に付き添い、守役を務めるがよい。」
 と、正時を千雄丸の守役に留め置いた。

 房家は千雄丸と正時に寝殿の一角にある小部屋を与えてやった。そして、領内から僧侶を集めて、元秀の追善供養を執り行った。
 元秀は、覚誉常通とおくりなされた。その菩提を房家は新たに千歳山兼序寺という寺を建てて、そこに安置した。
 房家は月命日に千雄丸を連れてその寺を訪れた。
 千雄丸は、寺の名を見て、
「これはお母上と同じではございませぬか。」
 と、声を上げた。
「ほう、千雄は字がもう読めるのか。」
 房家は感心した。
「はい、父上、母上、姉上、それに千雄と太郎兵衛の名を読めまする。」
 と答えた。
 房家はほほえましく思った。
「そうであったか。千雄よ。この寺は気に入ったか。」
「はい、御所様、まことにありがとうございます。きっと、父上も母上も姉上も喜んでいることと思いまする。」
 と、千雄丸は頭を下げ、嬉しそうに山門をくぐっていった。
「そうか、そうか。」
 と、房家は千雄丸の後姿を目で追い、ふと、
―仇を忘れ、このまま出家させるほうが、千雄にとっては幸せではないか・・・。―
 と思った。

 この年、二通の手紙が上方から送られてきた。
 一通は京の一条冬良からのもので、冬良の体調がすぐれぬというものであった。
 冬良には一人子供がいたが、継嗣には房家を、と考えて、わが子を出家させていた。それが慈尊である。しかし、慈尊は十年前に亡くなり、京一条氏を継げる者は房家の系統だけとなってしまったのである。
 そこで、手紙には土佐一条氏の誰かを養子として迎えたい旨を書いていたのである。
 このとき房家には十歳になる万千代丸がいたが、来年にはもう一人子が生まれる予定であった。
 房家はこれが生まれるのを待って、養子については考えるとした。
 そしてもう一通は、奈良の大乗院からのものだった。
 内容はあの尋尊が亡くなったというものであった。
 一条氏の中で誰もが短命であったのに対し、祖父兼良と同じく天晴れな天寿を全うしたのが、くしくも一条氏の気位を保ち続けた尋尊であった。尋尊は七十年も興福寺大乗院の門跡にあり、大和の守護というべき興福寺別当まで勤め上げたのである。
 
 

天4章 高楼夜宴 (その一) [天海山河]

 年が明け、永正六年(1509年)の早々、房家に第二子となる万寿丸が生まれた。
 早速、房家は男児の誕生を京の一条冬良に伝えた。
 冬良は大いに喜び、末娘の婿養子として万寿丸を迎えることにした。さらに、房家に昇進を勧め、従四位下から越階して従三位に叙任した。これで宣旨なしで宮中への昇殿が可能になったのである。
 その上で、冬良は房家に上洛を促した。

「御所様、太閤様(冬良のこと)よりご上洛のご催促がございまするが、いかがなさりましょう。」
 と、土居孫太夫が伺った。
「孫太夫よ、この上洛、叔父上には悪いがしばしらく待っていただくことにいたそう。」
 と、房家は答えた。
 冬良が房家を従三位に推したのも、上洛して京の一条氏を後見してほしいという意思の表れであることは容易に見当が付く。
 しかし、房家は禁裏の階位にそれほど興味はない。まして房家は公家の貴種を継ぐ者とはいえ、土佐の田舎育ちである。まだ京に上ったことはなく、気後れするのも無理はない。
「やはり、左様いたされますか。」
 
 このころ、房家はどうしてもこの中村を離れられない理由があった。
 それはある大事業を進めていたことである。
「ところで高島の船はいかがか。」
 と、房家が孫太夫に訊ねた。
 高島の船とは、播磨の国須磨に湊を持つ商船で、元は近江の国にあった一条氏の家領、高島庄の商人であった。それが室町時代に堺の商人となり、屋号を播磨屋とし、明との交易を行っていたのである。これが後の土佐の豪商播磨屋である。教房が土佐に下向した後は、土佐から木材輸送を高島の船が担い、京の一条屋敷、奈良の寺社に土佐の木材が使われたのである。
「はい、やはり瀬戸内は無理のようでございます。早々に土佐回りでの新しき航路を願い出ておられます。」
 といった。
 このころ、瀬戸内には海賊が現れて、商船に法外な通行税をかけてたり、荷を略奪したりしていた。
「交易はわが一条家にとっても有益なことじゃ。なんとかかなえてやりたいものじゃが、日向沖を行くべきか、豊後沖を行くべきか・・・。」
 と、房家は悩んだ。
 日向を行けば、日向の伊東氏や薩摩の島津氏の了解が必要となる。しかし、このころの南九州の諸国はお家騒動続きで話し合う相手がいない。一方、豊後沖を行けば伊予の御荘、法華津といった海賊に毛の生えたような土豪がいる。
「御所様、これは一計にございますが、周防の大内殿と結んではいかがにございましょうや。大内殿は京の文化にも精通いたし、亡き禅閣様(兼良のこと)と先代左京大夫殿(大内政弘のこと)は入魂でございました。大内殿とご当家とが結ばれれば、伊予の海賊もひれ伏しましょう。」
 と、孫太夫がいった。
「確かにそれは妙案じゃな。しかし好(よしみ)はなんといたす。」
「管領代殿(大内義興のこと)には今歳十五になられるご息女がございます。それを万千代君に嫁がせてはいかがにございましょう。」
 といった。
「いやいやその儀は待て。万千代には叔父上からの申し出で伏見宮邦高親王殿のご息女、玉殿を勧められておる。」
「おっと、それはいけませぬな。」
 と、孫太夫は天を仰いだ。
 この伏見宮邦高親王とは、誰あろう、かつて祖父兼良を絶賛したあの後崇光院の孫である。
 大内氏も武家の大家である。
 両家から嫁を同時にもらっては、どちらを正室にするか決めようがない。まして、伏見宮家の話を断るわけにはいかない。
 孫太夫は、はっとして、また妙案が浮かんだ。
「では・・・。」
 と、孫太夫は房家の顔を見た。
「なに、まろにか。十五の娘を娶れというか。」
「御身に差し障りがなければ・・・。」
 確かに、房家は万千代の母はすでに亡くなっており、また万寿丸の母も産後の肥立ちが悪く亡くなってしまい、やもめとなってしまったのである。
「むうむ・・・。」
 孫太夫は房家が悩むのを見て、
「御所様、なにを悩んでおられましょうや。これですべてが進みましょう。今、大内殿は京においでにございます。また、太閤様のご機嫌をお伺いもできましょう。ここは上洛なされてはいかがにございましょう。」
 といった。
「孫太夫、そなたなにを急いでおる。」
 と房家は遠慮した。
「善は急げと申します。大内殿とのご縁はご当家にとっても悪きことではございません。」
 と、孫太夫はいった。
「いや、その儀こそしばし待つといたそう。まずは妻の喪が明けてからじゃ。」
 と、房家はいそいそと奥の部屋と消えていった。

  

天4章 高楼夜宴 (その二) [天海山河]

 年が改まり、房家の喪も明けた。
 しかし、房家の悩みはまだ晴れない。
―上洛のこと、京一条家のこと、新航路のこと、加えて万千代の元服、あと・・・。まずは万千代の元服を進めるといたすか。その前に叔父上にお伺いを立てねばならぬな。―
 と、房家は考えた。
 万千代丸は今年十三の歳になる。 
 そもそも、万千代丸は冬良が京一条氏の家嫡に所望していた経緯がある。しかし、房家は長男を京に送ってはまた騒動が起こらないともかがらないと考えて、万千代丸を手元に置いて育てたのである。
「孫太夫よ。」
「お呼びでございましょうか。」
「実はそろそろ万千代の元服を考えておるのだが、そなた、使者となり京へ上ってきてはくれぬか。」
「それはよろしゅうございまするが、しかし・・・。」
 と、孫太夫は房家の顔をちらりと見た。
「ふう。」
 と、房家はため息を漏らした。
「そなたの言いたいことは分かっておる。叔父上のこともある。早々に上洛いたすと返事しておいてくれ。」
「はは、この孫太夫、確かに仰せ仕り候。」
 と、喜んで上洛の支度を始めた。
 
 京に上った孫太夫は早速冬良の邸宅、桃華坊(とうかぼう)を訪ねた。
 冬良は昨年から体調を崩し、床に伏せていた。
「ほう、土佐から土居殿が参ったか。大儀ご苦労である。京は初めてであろう。ご緩りとされよ。」
 と、冬良は床から身を起こし、孫太夫を歓迎した。
 冬良はまだ四十七歳であったが、少々やつれて見えた。
「太閤様、どうかご無理はなさりませぬよう。」
「いやいや、今日は少し気候もよい。ほれ、庭の桃の花もよく咲きよったわ。」
 と、冬良は庭の桃の木を指差した。
 この木は一条氏の子孫繁栄を願って、冬良が植えたものである。
「なんとまあ、美しいことでございましょう。」
 と、孫太夫は感嘆した。 
 桃の木は幹のところどころにこぶを拵え、花は枝の先までびっしりと咲き誇っていた。
「ところで、房家殿は達者か。」
 と、冬良が花に見とれている孫太夫に話しかけた。
「はは、御所様は早々にご上洛なされる御意にございまする。」
「そうか、それはよかった。まろも楽しみにしておる。なにせ亡き兄上の忘れ形見とはいえ、文で知るのみ。まだ会ったことがないゆえな。」
 と、冬良はうれしそうに目を閉じて、感慨に浸った。
「さて、万千代殿のことであったな。」
「はは、その件にございまするが、御所様は太閤様からの偏諱(へんき)を願っておられます。」
「そうか。万千代殿はまろがかつてわが家の跡取りにと思うておったが、やっと今年元服するようになったか。少し遅いとも思うが、ここは京。土佐には土佐の事情があるのであろうな・・・。その儀、たしかに承った。まろの『冬』の字を万千代殿に与えよう。」 
 といった。
「まこと、有難き幸せに候。御所様に代わり御礼申し上げ候。」
 と、孫太夫はいった。
「土井殿、まろはこのような有様でおじゃる。禁中のことは中御門殿に任せておる。なにかあれば、中御門殿に相談してたもれ。」
 と。孫太夫は中御門宣胤の屋敷を訪ねるよう勧められた。
 中御門宣胤は御歳七十にもなろうというのに、まだまだ現役ばりばりの公卿であった。
 中御門家は藤原北家勧修寺流で、代々大納言を輩出してきた家である。宣胤も権大納言であったが、今は職を辞して、帝のお伽(相談)相手をしているという。

 孫太夫はその屋敷を訪ねた。
 屋敷は摂関家にも勝るとも劣らぬ立派なものだった。
 それもそのはず、宣胤の娘は東海の名門大名今川氏親のもとに嫁ぎ、後に息子義元を東海一の弓取りに育て上げた寿桂尼である。 
 当時、都の公卿たちは応仁の乱後、各地にあった荘園を失い、今川氏のような地方の有力大名と縁を結び、家名を保つものが多かった。
 屋敷に通されると、白髪に漆黒の烏帽子をかぶったつや肌の老人が現れた。
 中御門宣胤である。
「これはこれは、土佐よりはるばるよくぞこられた。話は太閤殿下よりお伺いしているでおじゃる。」
 と、孫太夫を出迎えた。
「これはまことにご丁寧なお出迎え、いたみいりまする。」
 と、孫太夫は答えた。
「いやいや、これしきのこと。禅閣(兼良)様のころより一条殿にはいろいろとお世話になっておるでおじゃる。」
 と、宣胤はいった。
 宣胤は兼良と同じく、戦乱の最中に禁中の儀式が荒廃してゆくことに危機感を覚え、兼良を師と仰いで有識故実を学んだ人物である。
 宣胤は、
「さて、ご子弟殿の御元服についてでおじゃるが、一条家は摂家の名家でおじゃる。先例にならい、御元服された上は官位をたまわるのがよいでおじゃるな。それに、房家殿も昇進なされたほうがよいのう。まろが、帝の奏上し段取りいたしましょう。」
 といった。
 孫太夫は喜び、宣胤にお礼をして屋敷を去った。
 そして、京での進展状況を認(したた)めた文を房家に送り、少しの間京に逗留する許しを得た。
 後日、孫太夫は一軒の大きな邸宅を訪ねていた。

 一方、房家は土佐でもう一つの悩みに憂いていた。
 庭を見やると、藤の花房がゆったりと風になびき、甘い香りを漂わせていた。

 

天4章 高楼夜宴 (その三) [天海山河]

 藤棚の庭園をはさんで房家の書院の斜向かいには千雄丸の小部屋がある。
 時折、その小部屋から千雄丸が庭におりてきて、守役の近藤正時に武芸の手ほどきを受けているときがある。
 今日もまた、藤の花房の向こうで正時を相手に「えい。」と、やり合う声がした。
「さすが若君、だいぶ太刀筋がよろしくなりましたぞ。しかしまだまだ。見ていてくだされ、このように脇を引き締め、えい、と振り下ろせば太刀に力が伝わるのです。」
 と、正時は手本を見せた。
「こうか、えい。」
 と、千雄丸が素振りした。
「そうです。そのようにいたすのです。さあこのじいに目掛けてもう一度。」
 と、正時は木刀を構えた。
 すると傍らから、
「正時殿、精が出ますな。」
 と、房家が声をかけた。
 正時は不意に目をそらした。
 途端、
「えい。」
 と、千雄丸の木刀が正時の小手をしたたかに打ち叩いた。
「あ痛。」
 と、正時は声を上げた。
「正時、大丈夫か。」
 と、千雄丸が駆け寄った。
 房家も、庭に下りて、
「これは稽古の最中に悪かった。大事無いか。」
 と、声をかけた。
 正時は、
「いやいや、これしきのこと。たいした事はございませぬ。この正時がよそ見をしたのが悪うございます。若君、このように戦場では決してよそ見などなされてはなりませぬぞ。」
 と、自虐的な笑いを浮かべた。
「これぞまことに武士たる者の心得というべきものか。身を持って主君に仕える有様、天晴れな様よ。今や武士なくして国は治まらぬ時世。平時のときにも気を抜かず、武芸に励むことの奇特さよ。にもかかわらず、事情も心得ぬまろが不徳、許してたもれ。」
 と、房家は正時と千雄丸に詫びた。
「滅相もござりませぬ。どうかお顔を上げて下さりませ。」
 と、正時はいった。
 しかし、房家にとってはどこか引け目があったのかもしれない。
「いやいや、正時殿、それに千雄丸殿。詫びの証として、このまろが何かせねば気が済まぬ。所望するものがあれば何なりとまろに言うてたもれや。」
 といった。
 これにはさすがに正時と千雄丸も困り果てて、顔を見合わせた。
 すると房家は、
「そうじゃ、千雄丸殿、まろは今日よりそなたをわが子と思い、千雄と呼ぶようにいたそう。そなたはこのまろを父と思うて、何か欲しいものを申してみよ。遠慮はいらぬ。」 
 といった。
 千雄丸は少し考えて、
「学問がしとうございます。」
 と答えた。
 房家は目を丸くした。
「学問とな。」
「はい。母との別れの際に学問を習えと申し付けられておりまする。」
 と、千雄丸は答えた。
「ほう、これは殊勝な申し出かな。よし承った。千雄によき師範を探すとしよう。ちょうど今、孫太夫に滞在延長の返事を送らねばならぬところであった。京によき者がおれば呼び寄せるよう申し付けよう。」
 と、房家は孫太夫のもとへ文を送った。

 孫太夫は今出川の管領屋敷を訪れた。
 屋敷には大内氏の家紋である花菱の旗がなびき、ものものしい気配であった。
 このころの幕府の事情も大きく様変わりしていた。
 阿波屋形の細川澄元と細川京兆家の家督を争っていた野州家の細川高国は、大内義興の上洛を聞きつけて大内義興に内通し、一方、澄元は将軍足利義澄と手を結んでこれに抗したが、敗れて近江へ逃れた。
 昨年の夏、澄元は足利義澄とともに京を奪還すべく、如意ヶ嶽で高国と戦ったが、主力の三好長秀を敗死させてしまい、義澄をほっぽらかして、あわてて阿波に逃げ帰ったのである。
 数々の戦いで高国側の主力として戦った大内義興の権勢は高まり、朝廷より左京大夫に任じられて、将軍と管領を後見する管領代となったのである。
 然るに、管領屋敷は幕府の中枢であり、ここに足利義稙と細川高国も住んであるが、実質的な屋敷の主は大内義興であった。
 孫太夫は、足利義稙と細川高国に形式的な挨拶を済ませると、早速に大内義興と会談した。
「お目通り叶い、まことに恐悦至極に存知まする。」
 と、孫太夫は慇懃に挨拶を述べた。
「遠路はるばる、大儀である。面を上げられよ。」
 と、ゆったりとした口調で義興がいった。
 義興は房家と歳が近い壮年の武将である。房家にはない勇壮な面影とともに、都の文化に精通した優雅さを兼ね備えていた。
―これが、西国七ヶ国に号令をかけた武威というものか―
 と、孫太夫は思った。
 それはまさしく摂政や関白などといった有識故実の慣例によるものでは到底醸し出されることのない、実力の成し得る技であった。 
「話は常々中御門卿より伺っておる。当家にとっても有難い話じゃ。是非とも一条殿へわが娘を嫁がせよう。」
 と、義興は約束した。
「まことに有難き幸せに存知まする。これでよき話を土佐へ持ち帰ることができまする。」
 と、孫太夫は礼をいった。
 義興は、
「いやいや、こちらとてこたびの申し出は有難い。一条殿と縁を結び、航海の安泰を計ることは大切なこと。まして、それがしが朝廷への礼法をつつがなくできるのも、先代一条禅閣殿とわが父の知故があってのこと。くれぐれも房家殿に宜しゅう伝えて下され。」  
 といった。
 孫太夫はふと、脇に目をやると、居並ぶ家臣どもの中に一人の若い僧がいた。
「ほう、土居殿、梅軒がお気になられるか。」
 と、義興がいった。
 僧が行軍に随行することは珍しくない。実際、軍僧というものがおり、卓越した知識と戦略を駆使して、軍師としての役割を果たす者もいれば、相手と折衝を行い有利に交渉を進める者もいる。また、戦で亡くなった者を埋葬し、読経を上げて弔うのも軍僧の役目であった。
 しかし、それにしてもこの僧は若すぎる。歳は二十歳ほどであろうか。紫染めの法衣を身にまとい、序列の上位に座している。
―まさか衆道(男色)か?―
 と、正時は思った。
「ははは、なにやら誤解をなされておられるようじゃな。この者はわが周防の出でな、諸国を遊学し、今は天龍寺に籍を置いておる学僧じゃ。今都ではやっておる程朱学(朱子学)の問答で名立たる高僧すらこの梅軒には敵わぬ。ほれ、梅軒よ、土居殿にご挨拶いたせ。」
 と、義興がいった。
 若い僧は進み出て、
「南村梅軒と申します。」
 と、凛とした声で挨拶をした。
「たいそう博識なお方とお伺いいたす。どちらで学ばれましたかな。」
「初めは山口にて学びましたが、後は南都興福寺にて、その後足利の学び舎にて。」
「それは各地をめぐられましたな。」
「いえいえ、まだまだにございます。」
 と、南村梅軒は首を振った。
「土居殿、梅軒は土佐に興味をもっておるのじゃ。」
 と、義興がいった。
「土佐にでございますか。」
 と、孫太夫はぽかんとした。
 梅軒は、
「土佐には南海の名刹、吸江庵があると聞きまする。」
 といった。
「確かに、ござるが。」
「ぜひ行ってみたい。」
 と、梅軒は目を輝かした。
「どうじゃ、梅軒、土佐に下向してみるか。」 
 と、義興がいった。
「宜しいのでございますか。」
「うむ。一条殿もな、なにやら庇護した童子によき学者を探しておるそうじゃ。もはや京に居ってもそなたの相手となる者もおるまい。それの相手でもしてやるのがよかろう。向学のため出向いてみよ。せっかく土居殿もおられる。帰途に随行せよ。」
 と、義興は梅軒の土佐下向を了承した。
「これはわが主、房家公も喜びまする。」
 こうして、孫太夫は梅軒とともに土佐への帰途についた。

天4章 高楼夜宴 (その四) [天海山河]

 孫太夫が土佐への帰路にある頃、中村御所では満開の藤の花をめでようと、房家が領内から家臣を呼び集めて宴を開いていた。
 大広間に集まったのは、一門、譜代の臣三十余名と城持ちの国侍五十余名である。
 千雄丸と正時も、その宴に同席した。
 千雄丸は一条氏の家臣の目に好奇なものに映ったのだろう。
「あれが、中原の雄、長宗我部殿の忘れ形見か。」
「まこと、幼きとはいえ武士の面影が漂うではないか。」
「やれやれ、御所様もお人がよいのか、物好きなことよ。後々ご当家の障りにならねばよいがのう。」
 と、口々にささやいた。
 
 そこへ、房家が現れた。
 腕にはまだ幼い万寿丸が抱かれ、傍らにを万千代丸を連れている。
 房家は席に着くと、厳かに宴が始まった。
―さすがは、一条家の御簾中じゃな。中原の趣とはまるで違う。―
 と、正時は思った。
 岡豊では主従無礼講で、わいわいと飲み明かすのが常であったが、京の風雅によるものであろう。庭の灯籠が藤棚を照らし、闇夜にほんのりとそのうす紫色の影を浮き出している。
 しばらくして房家は家人に目配せした。
 すると、庭に設けられた舞台に美しい巫女が現われ、神楽を舞いはじめた。
「一宮の宮神楽か。いと美しき巫女かな。」
 と、家臣どもは巫女に目を奪われた。
 一宮とは、中村の南、間崎にある一宮神社のことである。
 巫女は片手に七つの星を打った剣を持ち、まるで天女のようにひらりひらりと夜風に舞った。
「なんと風流なことか。」
 正時はこれほど雅な光景は見たことがない。
 ふと、千雄丸に目をやると、千雄丸は舞の興じることもなく、時折眺めては淡々と膳に箸を付けていた。
 舞が終わると、次は能、その次はやや俗世向きな田楽が始まった。これには国侍たちが興じ、次第に酒がまわって、宴はにぎやかなものとなった。
 すると、さすがの一条氏の家臣とはいえ、中には酒癖の悪い者もいる。女の話や金儲けの話などがやがやと騒がしくなった。
 大広間の隣には渡り廊下で繋がった二階の楼閣がある。
 それへ上ると、中村の町はおろか寺後川の向こうまで眺望でき、また、左岡と右山の間から上がる月が最も美しく見えるのである。
 房家はその場の成り行きに任せ、
「どれ、月でも眺めてくるか。」
 と、席を立った。
 ふと、房家は千雄丸のことが気にかかり、目をやった。
 すると、千雄丸は田楽に興じることもなく、端然としている。
―どうやらこのような趣向は好きではないらしいな。―
 房家は、
「千雄よ。それに正時殿も。」
 と、手招きした。
「今宵は良い月が出ておる。ご両人とも、まろと月でも眺めに参ろう。」
 と、誘った。
 房家は女官に命じて、楼閣に新たに席を設けた。
 房家は千雄丸の手を引き、楼閣の二階に上った。
「どうじゃ。千雄。ここからの眺めは。」
 と、房家はぐるりと辺りを指さした。
 夜空には満天の星が輝き、東の山際に寝待月が顔を覗かせていた。
「まっこと、美しゅうございます。」
 と、千雄丸が答えた。
「そうであろう。ここから眺める月は格別ぞ。」
 房家はそういうと、桟敷に腰を降ろし、欄干に寄り添って、月を眺めた。
 時折、藤の香りを含んだ風が、すうと吹き渡る。
 甘い香りに酔いがまわる。
―はて、月がおぼろげに見える。―
 房家は袖の先で目をこすった。
―なんぞ、霞か。―
 風で運ばれた湿気が霞となって、月明かりを遮っていた。
 庭に目をやると、まだ国侍どもが外に出てお囃子を立てている。この桟敷から庭までは一丈(三メートル)余はあろうか。
 房家はふと、戯れに、
「千雄よ、この欄干の上より庭に飛び降りなば、そなたの父が名跡を取り返して進ぜよう。」
 と、いい終わるや終わらぬや、千雄丸は欄干に走り寄り、
「あっ。」
 といって、飛び降りた。
 房家は興ざめし、慌てて欄干から身を乗り出した。
 さっきまで騒がしくしていた国侍どもは、しんと静まり返り、こちらに目を向けている。
 房家は、薄暗がりに浮かぶ黒い影に目を凝らした。
 すると、黒い影はむくりと立ち上がり、灯篭の明かりに照らされると、こちらを向いて、にこりと、笑った。
 房家は驚いた。
「彼は今年七歳なり。さすが名のある武士の子よ。幼少の身であろうとも恐れるところを恐れず、名字のためにわが身をも省みぬ飛び様かな。」
 というと、房家は手を叩いて感涙した。
 その夜、そこにいた誰もが千雄丸に拍手喝采を送って、止むことはなかった。

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天5章 憂げ花 (その一) [天海山河]

 それから三年が過ぎた。
 万千代丸はその年の暮れに元服し、房冬と名乗って、従五位下侍従に任官された。京の一条冬良の口添えもあって、房冬は永正十年(1513年)に正五位下左近衛少将に叙任された。
 房家も左近衛中将から、権中納言に昇ったが、まだ京には上れずにいた。
 理由は播磨屋の新しい航路と湊の確保に奔走していたからである。
 伊予の沖合いを通るにはどうしても御荘、法華津などの南伊予の豪族の協力が必要である。南伊予には一条氏と同じ、藤原北家の血筋を引く、西園寺氏が松葉山城に拠っており、御荘や法華津も西園寺氏には一目置いていた。
 そこで房家は娘を西園寺氏に嫁がせて、伊予沖の航路確保に成功したのである。
 これで播磨屋の船は瀬戸内を通らずに土佐を経由して、堺と博多を往復することができるようになったのである。

 ある日、御所の回廊をいつものように房家と孫太夫がなにやら話しながら、奥の坊へと向かっていた。
「管領代殿が来年にはご息女をこちらへ入内させると申しておりまする。」
 と、孫太夫がいった。
「左様か、それでは迎える準備をせねばならぬな。ところで、大内殿は去年公卿に列せられたと聞くが。」
「はい、明との交易権を朝廷に願い出ておられるとのことにございます。」
 と、孫太夫は答えた。
 房家は、それは妙なことだと思った。
「明との交易権は確か公方殿を通して京兆家に与えられていたものであったな。」
「はい。それがどうやら朝廷よりじきじきに管領代殿に与えられるよう動いておられるもようにございます。」
「そうか、また都が騒がしくならねばよいが・・・。」
 と、房家はつぶやいた。 
 奥の坊には書庫がある。 
 書庫は分厚い土壁で覆われ、火災がおきても中の書物が燃えないような造りになっている。
 
 房家は書庫の前まで行くと、ふと、脇に目をやった。
 書庫の隣には新しく建てた学舎がある。
 数年前、都より呼び寄せた南村梅軒のために建てたもので、いずれは家臣の子息などをここに集めて、教育しようと思って建てた。
 学舎の中から、梅軒と千雄丸の声が聞こえてきた。
 今はもっぱら千雄丸が使っているのである。
 房家は蔀(しとみ)の隙からその中をそっと覗いた。

「先生、武とは国にとってなんでありましょう。」
 と、千雄丸が尋ねた。
 梅軒は、
「国を治めるものにございます。」 
 と、答えた。
「では、知とは国にとってなんでございましょう。」
 と、尋ねると、
「それもまた、国を治めるものにございます。」
 と、答えた。
「それでは先生、武と知はいかにして国を治めるのでございましょうや。」
 と、千雄丸が問うた。
 梅軒は、にっこりと笑った。
「それはよい質問ですね。では、千雄、武だけを以て国を治めんとすればいかなることになりますかな。」
 と、今度は梅軒のほうから質問した。
「戦に勝たねばなりませぬ。」
「どれほど?」
「向かう者すべてにでございます。」
「ではそれはいつ終わるのでございましょう。」
 と、梅軒はいって、またにっこりと笑った。
「分かりませぬ・・・」
 千雄丸はそういって困惑した。
 これが梅軒の問答法である。
「千雄よ、そなたは兵法への関心が強い。一つ、呉子の一句を伝授いたしましょう。『天下の戦国、五たび勝つ者は禍なり、四たび勝つ者は敗れ、三たび勝つ者は覇たり、二たび勝つ者は王たり、一たび勝つ者は帝たり。これをも以てしばし勝って天下を得る者は稀に以て亡ぶ者多し。』と。ではこれはいかなることでしょう。」
 と、梅軒が訊ねた。
「天下が乱れる所以にございます。」
「左様。この一句の先に、国を治め、戦を収めるには礼をもってするとあります。それでは千雄、礼とはいかなるものであったか覚えておられますか。」
 と、また、梅軒が訊ねた。
「それは人を知るということです。」
「では、知るとはいかなるものですか。」
「誠を追究することにございます。」
「そう、すなわち、それが知です。では、知とはどのようなものでしたか。」
「決して物事のうわべを覚え、言葉巧みに操るものにあらずです。」
 と、千雄丸は答えた。
 梅軒は大きく頷いた。
「その通り。よいですか。よく覚えておくのですよ。『大道を自得し、言行一致に偽りなく、心貌一向にして雑ならず。君夫に仕えるもこの道を以てし、臣妾を使うもこの道を以てし、家をととのえ、国を治めるもこの道なり。天下を平らかにし、四海九州を弘め行うもこの道にしていささかも他術を交えることなきものなり。』と。」
 千雄丸は梅軒のいうことを諳んじた。
「千雄、これは一日にして成るものではありません。一生を掛けてそなたの目で見極めるのです。諸国の勇将も孫呉の兵法に精通する者は多くともその真が見抜けなければ、いずれ滅びましょう。無論、乱世であれば、強大なる武を以て天下にその威光を知らしめんとする者も現れましょう。また、たとえ真を得た者とて滅ぶこともございましょう。されど、武を頼りに礼を怠ればこれすなわち滅び、その意残らず。真を得たる者たとえ滅ぶとも、その意残る。このこと忘れてはなりませぬぞ。」 
 と、梅軒はいった。
 この後、梅軒は千雄丸の師範の任期を終えると、希望通りに吸江庵へと修行行脚の旅に出たのである。
 
 房家は気づかれぬよう、そっとその場を立ち去った。

天5章 憂げ花 (その二) [天海山河]

 ある夜のことである。
 近藤正時がふと目を覚ますと、隣で寝ていたはずの千雄丸がいない。
「はて、どちらへ行かれたのや。」
 正時は寝床から起き、辺りを見回すと、障子の向こうに影が見える。
 そっと障子の向こうを覗くと、千雄丸が縁側に座り、夜空をながめていた。
「若様、今宵はお寒うございますぞ。」
 と、正時は羽織物を差し出した。
 千雄丸は振り返ると、
「太郎兵衛。起こしてしまったか。」
 といって、羽織物を受け取った。
「いえいえ、されど、武士とは妙なものでございまする。いつもと辺りが違うと感じれば寝ていても感じるものにございます。」
 と、正時はいうと、縁側に座り、夜空に視線を向けた。
 冬の空は凛として雲一つない。
「太郎兵衛は寂しくないか。」
 と、千雄丸が唐突に訊ねた。
 正時は、「はっ」とした。 
 確かに中村へ来てすでに五年が過ぎている。家族はあの戦のおりに散り散りとなった。死んでいるのか、それとも生きているのか、さっぱり分からない。長宗我部家中の友もいなければ、また、一条氏に知り合いといえるのは土居孫太夫ぐらいである。
 正時らは一条氏からすればあくまで客人に過ぎず、言ってしまえば他所者なのだ。
 ただ、それを感じずに来られたのは偏に千雄丸がいたからである。
「若様、それがしは一つも寂しいことはござりませぬ。それに、亡きお屋形様との約束を守らねばなりませぬ。」
「千雄はもう父上の顔はぼんやりとしか覚えておらぬ。無論、母上も。されど、あの日のことはよく覚えておる。いつぞや父上のごとき武士となって、あの城へ戻りたい。あのにぎやかな城に戻りたい。」
 と、千雄丸は声を押し殺していった。
 正時の胸に込み上げてくるものがあった。
 正時は手で口元を押さえてこらえた。
 しかし、こみ上げるものは目鼻へと抜け、つうん、とする。
 正時は堪らず顔をゆがませて泣いた。
 
 さて、年が改まって、永正十一年、千雄丸も十一歳となった。
 武士であればそろそろ元服の歳である。
 しかし、さすがの房家でも、隠匿の身である千雄丸を元服させるわけにはいかない。
 そのころ、土佐の中原では、本山養明が長宗我部氏の残党を血眼になって探し回っていたのである。
 中村にも本山の隠密が出入りし、いつ千雄丸に危害が及ぶとも限らない。
 安全なところは、唯一この中村御所の中だけなのである。
―これでは檻に囲われた鳥のようじゃ―
 と、千雄丸は思った。
 ある日、千雄丸は房家にこう頼み込んだ。
「御所様、千雄は武士の子にございます。落城のおり、母と約束を交わし、成人(ひととなり)となれば馬を習わねばなりまさせぬ。どうか、厩の馬を一頭お貸し下さりませ。」
 房家は少し躊躇したが、あのときの約束がある。無碍に断っては意にそぐわぬこととなる。
「よしか、千雄、屋敷の外へいってはならぬぞ。それに学問もおろそかにしてはならぬぞ。」
 と、忠告して、馬を貸し与えやった。
 千雄丸は房家にお礼を言って、早速厩に向かった。

 厩は政所の北にある。
 千雄丸は正時の指導のもと、馬乗りをはじめたのであった。
 公家意識の強い一条氏の家中にはその様子を見て、
「武士の子。」
 と、揶揄するものもあった。
 一方、房家は別の面持ちでこの様子を見ていた。

「御所様、もしや千雄丸君のことでお悩みでございますか。」
 と、孫太夫が声をかけた。
「うむ。実はな、まろは千雄を預かってこの方、ずっと彼を仏門へ入れようと思っておったのじゃ。もし、このまま岡豊に帰して、また新たなる火種となっては元も子もない。孫太夫、そなたはどう思う。」
「仰せご尤もにございます。それがしも一条家のため、土佐の平穏を謀るは必定と存知まする。まして、今、土佐の中原の諸将は互いに同盟し合い、均衡を保っておりますれば、千雄君を帰してはならぬと存知まする。できれば元服する前に仏門に入れるのがよいかと。」
 と、孫太夫は応えた。
「そう、その通りなのじゃが、まろにはどうしてもそうできぬのじゃ。時を稼ぐかのごとく千雄には教育を施し、できれば学問に興味を持ち、自ずと入門でもしてくれぬかと思うておった。されど、今日に至って、そのような様子はない。きっとまろとの約束を心に留めておるのであろう。」
 と、房家はいった。
「御所様はご寛大にございまする。」
 と、孫太夫がため息をついた。
「まさに、それがまろの祟り目よ。」
 と、房家はこぼした。
 それには孫太夫も「いいえ」とは言えず、畏まるしかなかった。
「とにかく、千雄は今年で十一じゃ。本来ならば、元服せねばならぬ歳であるが、もう少し様子を見るしかあるまいな。」
 と、房家はいった。
「そうでございますな。じっくりと時間を掛けて千雄丸君を見守ってまいりましょう。」
 と、孫太夫は同調した。

 しかし、しばらくしてそう千雄丸ばかりを気にかけては入られない事態となった。

「御所様、大変にございます。大変にございます。」
 と、房家の書斎に孫太夫が駆け込んできた。
「どうした、孫太夫。左様に慌てて。」
 房家の問いかけに、孫太夫は一息置いて、
「京より火急の使者で堀川殿が参られました。ただいま広間にお通ししておりまする。」
 と、答えた。
「なんと、堀川殿がか。」
 房家は驚いた。
 堀川殿とは、堀川大炊助信隆といい、京一条氏の執事のような存在で、土佐一条氏領内に四百貫を与えられていた。
 余ほどのことでなければ、堀川大炊助が土佐に下向することなどない。
 房家が広間に行ってみると、堀川大炊助はまだ風薫る頃だというのに額に大量の汗をかき、乱れる髪を整えていた。
「堀川殿お久しぶりでおじゃるな。」
 と、房家が声をかけた。
「これは中納言様、お久しゅうございます。」
 と、大炊助は慌てて白髪交じりの頭に烏帽子をかぶせた。
「なにか京でございましたかな。」
 と、房家が訊ねた。
 大炊助は身なりを整えると、
「急なことでございまするが、さる三月二十七日、太閤様、お隠れになられましてございます。」
 と、答えた。
「なに、先日文を交わしたばかりではないか。まして、今年は禁中への勤めをなされていたのではなかったのか。」
 と、房家は面食らった。
「はい、確かに年の初めはご機嫌もよく、たびたび外へお出かけにもなられておりましたが、急にお身体を崩され、間もなく身罷られましてございます。」
 と、大炊助は事情を話した。
 房家はふと気になったことがあった。
 それはこのあたり急に官位が上がりはじめたことであった。
 房家はこのとき権中納言である。本来ならば、禁中に上って朝政に関わらなければならない。
「もしや、まろやわが子のために宮中へ参内していたのではないか。」
 と、訊ねた。
 大炊助は、
「いいえ。」
 と、小声で答えて、首を横に振ったが、涙がぽろりとこぼれた。
「左様であったか。」
 といって、房家は天を仰いだ。

 ついに房家は一度も冬良と面会することはなかった。
 応仁の乱に翻弄された一条氏にあって、若くして家督を継ぎ、この動乱を生き抜いた一条冬良は、まさに桃花の散る頃、この世を去ったのである。

天6章 大文字 (その一) [天海山河]

 冬良の急死によって、房家は計らずも一条氏の長となってしまった。
「御所様、これは早々に上洛せねばなりませぬぞ。」
 と、孫太夫がいった。
 孫太夫の言うことはもっともである。しかし、土佐一条氏を取り巻く状況は必ずしも安泰ではない。
「孫太夫よ、この上洛は長きに及ぶことは間違いあるまい。その間、津野、本山の動向が心配じゃな。きっとこの者らはまろが不在のうちの何らかの動きに出よう。」
「されど、こたび上洛を怠れば、それこそ禁中でのご当家の立場は如何なものになりましょう。」
「宮中との件は当分の間、中御門卿にお頼みいたそう。そもそも、中御門家への貢はもっぱらこの幡多からのものじゃ。もしまろが不在のうちに幡多が本山にでも攻められれば如何とする。まろも中御門卿も京で飢えることとなる。」
 これには孫太夫も同感である。房家は本山氏や津野氏にとって目の上のたんこぶでしかない。房家がここにいるからこそ、本山らは幡多に手を伸ばそうとはしないのである。
―確かに、軽々に動いてはならぬ時である。―
 そのとき、ふと、孫太夫に妙案が浮かんだ。
「御所様、楔を打ってはいかがにございましょう。」
 と、孫太夫がいった。
「楔とな。」
 房家は、虚を突かれたかのように目を丸くした。
 孫太夫は一歩に進み出て、
「はい、楔にございます。先ずは野見の湊の奥、戸波(へわ)に福井玄蕃なる者が居りまする。この者、身代は小身ではございまするが、津野、大平の間にありながら、いずれにも属しては居りませぬ。これと結び、本山、津野の間にご当家の楔とするのでございます。」
 といった。
「つまり、喉もとの骨というわけであるな。」
「左様にございます。」
 と、孫太夫は答えた。
 しかし、房家にはそれだけではとても十分とは思えなかった。
「されど、孫太夫。福井ほどの小身で、津野、本山の大家を相手に持ち堪えるであろうか。」
「心配には及びませぬ。小生にもう一つ愚案がございます。」
 と、孫太夫が謙遜した。
「ほう、そなたが愚案というには余程の自信があってのことであろう。」
 と、房家が訊ねた。
「恐れながら、御所様、吸江庵へ百貫の祠堂料をお納めなさいませ。」
 と、孫太夫はいった。
「なんと、百貫とは。不破八幡とて年の祠堂料は五十貫であるぞ。」
「御所様、これは呼び水にございます。呼び水は少なくてはいけませぬ。幸い、吸江庵には梅軒殿が居られまする。梅軒殿の高名はすでに国中に知れ渡り、殊に寺奉行の天竺花氏殿は梅軒殿を屋敷に呼んで直に講義を受けておられるとか。もし、御所様が過量の祠堂料を納めれば、天竺殿は御所様を畏怖し、その上でご当家より誼を求めれば、天竺殿もこれに応じましょう。」
 と、孫太夫はいった。
「なるほど、まろを正面に、内に福井、背後に天竺となる訳じゃな。」
「さもあらば、御所様がご不在であろうとも、本山は動けませぬ。まして、吉良殿が梅軒殿にたいそう傾倒しておられるとか。御所様が吸江庵にご敬意をお示しなさりますれば、吉良の動向も抑えることができまする。」
 と、孫太夫は己が策にやや酔っているかのようでもあった。
 ところが、房家には一つ引っかかるところがあった。
「孫太夫よ、しかしな・・・」
 と、房家は腕を組んで考え込んだ。
 天竺氏は千雄丸の仇である。天竺氏との誼は千雄丸への情義を欠くことになる。
 房家の顔を見て、孫太夫はつぶさにその心中を察した。
「御所様、何をお迷いにございましょうや。御所様のお志はこの土佐の平安。千雄丸殿にとって天竺殿は仇とはいえ、もしこの先、千雄丸殿が岡豊に戻られようとも、これと干戈を交わすことなど、御所様の威光においてあってはならぬこと。この誼は天下大道の義に逆らいませぬ。」  
 と、孫太夫は舌を振るった。
 房家は孫太夫の言葉に、「実に」と思い、
「よし。孫太夫よ、早々に謀れ。」
 と、孫太夫を福井玄蕃のもとに向かわせた。

天6章 大文字 (その二) [天海山河]

 そのころ、福井玄蕃は湊への出口である戸波浦を、津野氏の一族で武勇に秀でた中平兵庫助元忠に押さえられていた。
 津野氏は藤原基経の子孫とも、また、在原業平に繋がる在原氏の子孫、はたまた、伊予の名族越智氏のその子孫と、その出自が詳らかではないが、平安の頃より続く、土佐の古豪であった。
 南北朝の頃には一族から名僧、絶海中津を輩出し、時の権力者足利義満に仕えて、家運は興隆した。室町中期に、名将と名高い津野之高が将軍足利義教に謁見し、高岡郡のみならず吾川郡の北部までを治め、最盛期を迎えた。
 ところが、それに続く元藤、元勝が二代続けて短命であったため、中央権力の衰えも相まって、家運は下降の一途をたどった。そのため、多くの地侍たちが自立し、もともと高岡郡の大半を占めていた版図は、本城の姫野々郷と山間地の梼原郷に限られてしまったのである。
 その跡を、元勝の遺児、津野刑部少輔元実が継いだ。このとき三歳の幼児であったという。
 元実の後見には之高の孫でもある中平備前守元房が付き、これを補佐した。元房は元忠の父である。
 元房は幼い元実を戴いて、あっという間に失地の吉野郷(中土佐町大野見)、仁井田郷(四万十町窪川)、洲崎湊(須崎市)を回復し、続く元忠は吾井郷(須崎市吾桑)、多ノ郷(須崎市多ノ郷)、大浦(須崎市大浦)を切り取った。大浦は戸波浦と尾根を一つ隔てた湊であったが、まさにその尾根に元忠は城を築いていたのである。
 この大浦、戸波浦は横波三里と呼ばれる細長い半島に囲まれた入江の奥にあり、その入江は浦ノ内と呼ばれ、夏の大時化でも波は穏やかであったため、この一帯は土佐では東の甲浦、中原の大津、西の清水と並んで良港として知られていた。

 福井玄蕃はこれに激怒し、元忠を目の仇にして、その隙を窺っていた。
 しかし、元忠は名うての戦上手である。そう簡単に手出しはできない。
 一方、中平元忠も玄蕃を警戒し、遠巻きにその様子を窺っていたが、 無論、元忠には心の余裕がある。
 水主からすれば、この隣り合わせの湊では、便宜上、大身の津野のほうが小身の福井よりも何かと都合がよい。
 必然、水主は大浦の湊に船を繋ぐようになり、玄蕃にとっては、まるで真綿で首を絞められているかのようである。
「忌々しい元忠め、堅田(洲崎郷領主)、南部(吉野郷領主)、山内(仁井田郷領主)が落ちたとて、この玄蕃が津野の軍門に下るわけにはいかぬ。」
 しかし、玄蕃は、何もでできずにこの状況を傍観するしかなった。

 そこへ、一条氏から誼の話が飛び込んできた。
 玄蕃にとっては願ったり叶ったりである。
「これぞ天の救いよ。今に見ておれ。」
 と、玄蕃は小躍りして喜び、一条氏の被官である佐竹掃部頭義之を介して、承諾の返書を送った。
 
 この佐竹義之は良港を持つ久礼(くれ)郷の領主で、二千貫を有していた。 
 その出自は源新羅三郎義光の末裔で、常陸の佐竹氏の一族である。
 承久の乱の後、鎌倉方として戦功を上げ、上皇方として戦った土佐の旧地頭、佐々木氏に代わり、新地頭として土佐にやって来た。今日、久礼八幡宮に刻まれる『五本骨扇に月丸』の紋はその由緒を表している。
 義之もまた、津野氏の伸張に脅かされ、隣の安和湊(須崎市安和)をめぐって、小競り合いを続けていた。
「孫太夫殿、福井殿より返書を預かってまいりましたぞ。」
 と、義之は書状を差し出した。
「おお、これは掃部頭殿、大儀であったな。」
「いえいえ、これしきのこと。今や津野は本山と結び、八紘を掌にこの幡多の庄にも手を伸ばさんとしておりまする。このままでは野見の湊も危うく、すでに、仁井田五人衆も津野の軍門に下り、こちらを窺っておりまする。もし、御所様が上洛とあらば、その隙を突いて幡多の庄を切り取りにかかることは、見るよりも明らか。」
 と、義之はいった。
 この仁井田五人衆とは、幡多郡と高岡郡を隔てる台地にある仁井田郷の豪族で、茂串山城の山内(窪川)氏、志和城の難波(志和)氏、西原城の西原氏、影山城の西氏、本在家城の東(福良)氏らであった。
 彼らはそれぞれ千貫以上の所領を持ち、互いに婚姻を交わして、一族を成していた。
「五人衆どもはついこの前までは御所様の被官であったというに、それは時勢に寄りけりか。それほど津野の力が及んでおるということじゃな。」
「いかにも。今、津野に伏しておるのは窪川、影山、福良らにございますれど、いずれほかの者もこれに倣いましょう。」
 と、義之は含みを持たせた。
 孫太夫は、
「つまるところ、この中村はそなたの所領、久礼から遠い。と、いうことじゃな。」
 と、結尾から答えた。
「はい。」
 と、義之は肯いた。
「ゆえに、五人衆どもがすべて津野に味方すれば、必然、陸の道は断たれる。」
「はい。」
「しかし、貴殿のことじゃ。たとえそうなろうとも、津野などに味方はしとうはない。その名家ゆえにな。」
「おっしゃるところ、ごもっとも。」
 といって、義之はにかっと笑みをこぼした。
 孫太夫は腹の底から笑いがこみ上げてきたが、佐竹義之という男はそういう男なのである。
 決して自ら欲しいものは言わない。
 確かに、佐竹氏は一条氏の被官ではあるが、より正確にいえば与力に近い。殊に、この義之は自尊が高く、津野を相手ならば、城を枕に討ち死しようとも戦うであろう。
「しからば、当方より三百の兵を貴殿の下に常駐させよう。貴殿の兵と合わせれば一千にはなろう。それならば、いざ何事かが起きようとも、急場は凌げるであろう。兵糧も高島の船で送るゆえ安心いたせ。」
 と、孫太夫は約した。
 義之は
「ご配慮、ありがたく存じ候。」
 と、慇懃に礼をいって、久礼へと戻って行った。
 
 さて、次は大津城の天竺氏の攻略である。
 これには時間がかかると、孫太夫は覚悟した。

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天6章 大文字 (その三) [天海山河]

 そもそも、天竺氏とは何ら関わりもなければ、四十里も離れた遠地である。まして、一条氏が天竺氏とは仲の悪い長宗我部氏の遺児、千雄丸を匿っているという噂は、国中に聞こえている。
「まずは中原の虎狼どもに、これで一泡吹かせるしかあるまい。」
 と、孫太夫は百貫の祠堂料を携えて、吸江庵を訪れた。
「これはお久しぶりにございますな。」
 と、南村梅軒が孫太夫を出迎えた。
 梅軒は京にいた頃よりも、やや穏やかに見えた。
「梅軒殿、お元気であったか。」
 と、孫太夫は声を返した。
 梅軒は丁寧にお辞儀をし、
「ええ、ありがたいことにございます。土佐は京や周防に比べ、冬でも暖かいゆえ、まして、集落の子供らも健やかでございますれば、その相手で病など罹っていてはおられませぬ。」
 といった。
 孫太夫が辺りを見れば、境内の隅で五歳ほどの童どもが泥団子をこねて、はしゃいでいた。
「これはなかなかの難儀ではござらぬか。貴僧の如き名僧が、童相手とは惜しい。」
 と、孫太夫はいった。
 すると、梅軒は笑って首を横に振り、
「これが学びというものにございます。あのように子らが集い、泥をこねて、はしゃぎ、時に喧嘩をして、人を知る。これを私は泥学問と呼んでおりまする。土佐はこれを年がら年中できますれば、これほどの学び舎はなく、それにあのような童にして、中には大人顔負けの言を発する者もおられる。なかなか面白きところにございます。」
 と、答えた。
 その目は何かをしっかりと捉えているようであった。
「ほう、貴僧の目には左様に映るのか。」
 と、孫太夫は梅軒の器量に感嘆した。
「はい。いずれこの土佐の地から大いなる学問が生まれましょう。それを司るのがあの童たちにございましょう。」
 と、梅軒はいって、孫太夫を奥へ案内した。
「ところで、此度は何の御用向きでこちらへ参られたのでございましょうや。」
 と、梅軒が訊ねた。
 孫太夫殿は、
「祠堂料を納めに参ったのじゃ。」
 と、答えた。
「なんと、わざわざ筆頭家老の孫太夫殿が自らお越しとは。」
 と、梅軒は驚いた。
「いやいや、此度は御所様より折り入っての願いであってな。実はこの年の春に御所様の叔父殿が亡くなられて、その供養として、百貫をこの寺に納めに参ったのじゃ。」
「左様でございましたか。しかし、百貫とはたいそうな額にございまするが・・・」
「この寺は土佐隋一の名刹とあれば、御所様もこの土佐の平安を祈り、功徳を積まんといたしてのことである。」
「それは誠に尊い御深慮でありまするな。」
 と、梅軒は頷いた。
 梅軒は孫太夫の言葉に深く聞き入っているようであった。
 それを見て、孫太夫は、
「しかし、御所様にはこの土佐に一憂の念がござりましてな。」
 と、切り出した。
「一憂の念でござりまするか。」
 と、梅軒は聞き返した。
「左様。貴僧も存じの通り、御所様はこの北の岡豊におわした長宗我部殿の遺児を匿っておられる。長宗我部殿は元来この寺の奉行であったが、今の奉行、天竺殿らと戦い、お討ち死になされたのじゃ。」
「なるほど、そのようなことがこの寺にはござりましたか。」
 と、梅軒は感慨深そうにいった。
 梅軒は、天竺氏の世話にもなっている身である。
 無論、孫太夫はそんなことは承知の上で、話を続けた。
「されど、御所様は決して天竺殿に対し、遺恨があるわけではござらぬ。むしろ、千雄丸殿と天竺殿との仲立ちをなされようとさえ、お思いであられる。されど、千雄丸殿のことはいまだ内々のこと。あくまでも御所様のご心底はこの土佐の平安である。一条家は御所様の祖父の代より戦に見舞われ、困窮に苦慮なされた。この土佐は、幸いにもこれといった戦乱もなく、三十余年、一条家を養ってきた。御所様はそれを重々お思いになられて、南海の名刹であるこの庵に、此度、破格の祠堂料を納め、亡き太閤様の冥福を祈るとともに国の安泰を祈願したいと思し召しでごさる。」
 といった。
 梅軒は孫太夫の話を、時折、相槌を打ちながら聞いていた。そして、しばらく考え込むと、
「承知仕りました。この祠堂料はこの梅軒がしっかとお預かりいたし、黄門様のご意思に沿うようにいたしましょう。」
 といった。
 一方、孫太夫は鳩が豆鉄砲でも食らったかのように呆気にとられた。
「さ、左様でござるか。お納めいただけるとは誠にありがたい。御所様もお喜びになられるであろう。」
 と、孫太夫はあたふたと件の如き礼を述べて、祠堂料を差し出した。
 梅軒は諸国を遊学した男である。あらゆるところで心の駆け引きを経験していた。だから、土佐の田舎侍が太刀打ちできるほど柔な相手ではない。孫太夫が何らかの狙いをもって、この破格の祠堂料を納めにきたことは、これで十分察しが付いた。
 と、なれば、それ以上の言葉は要らぬ。語らせることのほうが無粋というものである。それだけ梅軒は奇知に長けているのである。
 しかし、ふと、梅軒は思った。
―孫太夫殿の考えは当座の処置としては間違いなかろう。されど、このことは後々何かの障りとなるやも知れぬな・・・。―
 それがどんなことなのかは、この天賦の才の持ち主でも分からない。

 孫太夫の狙い通り、一条氏が吸江庵に破格の祠堂料を納めたことは、たちまち国中に知れ渡った。
「一条殿は百貫もの祠堂銭を納められたそうじゃ。」
「百貫とな。兵三百を養えるほどではないか。」
 と、民衆は口々に噂した。
 自然、この祠堂銭を扱う寺奉行の天竺孫十郎花氏には羨望のまなざしが向けられた。
 当初はほくそ笑んでいた花氏であったが、さすがにこれほどまで噂されると、少々己が身を心配しはじめた。
―山田、いや、左近太夫殿はどう思っておられるであろうか。―
 花氏は、かつて滅ぼした長宗我部元秀の姿が己と重なった。
「このままいては明日はわが身であるな。」
 花氏は本山養明に気付かれぬよう、密かに一条氏との同盟を画策したのである。
 

天6章 大文字 (その四) [天海山河]

 とはいえ、本山養明の目を盗んで、一条氏と同盟を結ぶことは容易ではなかった。
 養明が土佐郡攻略を着々と進めていたからである。
 土佐郡はこの大津と浦戸湾を挟んで対岸に位置し、北は四国山地にまで続く山間地であり、南は潮江川(うしおえ)の流域に広がる低湿地帯である。この湿地帯を国沢と呼んでいたが、一見、穀倉地が広がる長岡郡と比べ、領地としては劣りがあるようだが、良質の塩を産出するところとして知られていた。
 潮江川の谷口に居する吉井氏、鵜来巣(うぐるす)氏は本山氏の家臣で、一方、このデルタ地帯の豪族はそもそも細川氏の被官ばかりで、中には国沢氏や大黒氏など長宗我部氏の一族もいた。
 しかし、細川、長宗我部両氏がいなくなった今となっては、武威を誇る養明への従属は時間の問題で、神田(こうだ)、井口、神森(こうのもり)ら諸将は、すでに養明の下に降っていた。せいぜい、これに抗していたのは本山郷の隣、土佐郡の森郷を本貫とする森氏ぐらいで、その飛び地が潮江にあった。
 その上、養明は、長畝、三谷、薊野(あぞの)に土佐中原を一望できるところに砦を築き、情勢をうかがっていたのである。
 一方、花氏は同族の十市氏や姻戚の花熊城の横山氏、蛸ノ森城の下田氏、金山城の石谷(いしがい)氏と一揆同盟を結んでいたが、到底、養明に抗しうる勢力ではない。
そこで、花氏は一計を案じ、南村梅軒を吸江庵より呼び寄せた。

「右近殿、お呼びですかな。」
 梅軒はいつもの儒学の講義でないと、すでに察しがついていた。
「よう来られた。梅軒殿。実はな、貴殿に達ての願いを聞いてもらいたいのじゃ。」
 と、花氏はいった。
 花氏の様子から、梅軒は中村へ行けというのではないだろうと思った。
「この愚僧にできることであれば何なりと。」
 と、梅軒は応えた。
 すると、花氏は辺りを見回し、
「梅軒殿、近こう寄れ。」
 と、手招きした。
 今の花氏は庭番すら怖いのである。
 梅軒は花氏のもとによると、
「此度、貴殿に駿河守殿のもとへ参り、わが方との同盟を仲立ちしていただきたいのじゃ。」
 と、花氏はいった。
 駿河守とは吉良宣忠のことである。宣忠もまた、梅軒のことを聞きつけ、吉良ヶ峰城の麓にある館に呼んで講義を受けていた。今も、この吉良ヶ峰の麓に御殿という地名が残っているが、かつてそこに吉良氏の館があった。
 梅軒は、
―なるほど。―
 と、思った。
 吉良氏のもとへ天竺氏の者が出入りしていては、養明に怪しまれる。
「承知仕りました。」
 と、梅軒は承諾した。
「そうか、それはありがたい。しかし、その上といっては何じゃが・・・」
 花氏は、誰かが吉良との間を行き来するのすら危険と感じているのであろう。
「吉良殿との同盟が上手くいったついでに、そのまま中村へ使者として参れば宜しいのですね。」
 と、梅軒はいった。 
「さすがは梅軒殿、察しが早い。」
 と、花氏は喜び、梅軒を吉良宣忠のもとへ向かわせた。

 吉良宣忠は梅軒の誘いを否とは言わない。むしろ、同盟を喜んで受け入れたのである。
 梅軒はその足で中村へと向かい、土居孫太夫にまみえた。
 梅軒が孫太夫と以前会ってから、もう一年が過ぎていた。
「梅軒殿、久々であるな。此度は誠に難儀を掛けもうした。」
 と、孫太夫は梅軒をねぎらった。
 梅軒はいつものようににこりと笑い、顔を横に振った。
「して、いかが相成ったかな。」
 と、孫太夫が訊ねると、梅軒は、
「天竺殿は一条様との同盟を望んでおられます。されど、中原には本山殿に味方する者が多く、天竺殿が一条様と同盟すると聞けば、また、騒乱の種になることを恐れ、内々に同盟を結ぶことを望んでおられます。」
「つまり、ことを荒立てぬようにということじゃな。そのこと、それがしも、無論、御所様もよくよく配慮いたす所存じゃ。ところで、梅軒殿は吉良殿のところへも寄ったと聞くが、よもや、儒学の講義ではあるまい。」
 と、孫太夫はにんまりと笑みをこぼした。
 梅軒はすまし顔で、
「孫太夫殿は相変わらずお人が悪い。そもそも、破格の祠堂料はこのためにございましょう。」
 といった。
「はは、許せ。決して、貴僧を騙そうとしたわけではない。しかし、貴僧こそ、わしの狙いを知っておきながら、承諾したのではないか。ともかく、そんなことはどうでもよい。大事なことはこの一条家が今抱えておる問題をどうやって切り抜けてゆくかじゃ。誠に、此度は貴僧に世話になった。何か所望するものがあれば、遠慮なく申されよ。」
 と、孫太夫はいった。
「では、畏れながら、一条様が上洛の折には愚僧を堺へお連れ下され。」
 と、梅軒はいった。
「なんと、吸江庵を去られると申すか。」
「はい。すでに、吸江庵には若い僧が育っておりまする。寺はこの者らに任せ、今、町衆で賑わう堺に儒学を広めたいと思い立ちました。」
 と、梅軒はいった。
「左様であったか。しかし、貴僧が土佐におらぬとなると、どこか寂しい思いがするのう。」
 と、孫太夫は腕組みして、天を仰いだ。
 梅軒は、
「そう仰っていただき、誠に幸いにございます。わたくしが土佐を去ろうとも、この教えは若き僧たちに受け継がれておりますれば、ご心配には及びませぬ。人は歳月を経て、世を去れど、その教えは去ることあらず。以前にも申しました通り、いずれあの泥学問の童子の中から傑物が現れ、まさにそのとき、この土佐が栄えることとなりましょう。」
 というと、またにこりと笑い、吸江庵へと戻っていった。

天6章 大文字 (その五) [天海山河]

 その頃、千雄丸は馬芸に精を出していた。
 お気に入りの馬は、黒金という黒駒で、蹄が大いのが特徴で、身体も並みのものより一回り大きい暴れ馬であった。
「若様、おやめ下され、また振り落とされまするぞ。もしも落馬などして、お体に何かございましたら、長宗我部家はいかがなりましょうや。」
 と、近藤正時は千雄丸を止めようとしたが、
「太郎兵衛、これしきの馬に乗れのうて、お家の再興が叶おうか。誰一人乗ることのできぬこの馬を、俺は乗りこなしてやる。」
 と、千雄丸は黒金の手綱を掴んだ。
 すると、黒金はヒヒーンと、大きく嘶き、首を激しく揺さぶった。
「ははは、さすがは暴れ馬よ。そうでなくてはならぬ。」
 と、千雄丸は黒金の頬をなでた。
 黒金はそれが余程気持ちがいいのか、首をくねくねと回して喜んだ。
「それ見よ、おぬしの心はとうに読めておるぞ。」
 千雄丸は、黒金をそっと厩から牽き出した。
 そして、東の門から宮田少路に出ると、さっと黒金に飛び乗った。
 黒金は大きく前足を上げ、千雄丸を振り落とさんとしたが、
「どう、どう、どう。同じ手は食わぬぞ。」
 と、千雄丸は素早く、黒金の首元をさすってやった。
 すると、黒金はまた、くねくねと気持ちよさそうに首を回して落ち着いた。
「若様、もしや、そのままお出かけになられるのではありますまいな。」
 と、後から正時が声をかけた。
「そうじゃ。少しこの辺りを回ってくるつもりじゃ。」
「それはなりませぬぞ。もしも間者にでも見られたらいかがなさいます。」
 と、正時がいった。
「太郎兵衛。俺はいくつになったか。」
「若様、何をとぼけたことを仰いますのやら。」
「よいか、俺は十三じゃ。あれより八年も経っておる。そなたのように見目形の変わらぬ大人では、間者にばれるであろうが、童であった頃の俺と、今の俺とを同じであると分かる者がおるであろうか。案ずるな。」
 と言い残して、千雄丸は黒金とともに駆け出していった。

 千雄丸は、宮田少路から羽生少路へと抜け、川の土手を駆け上がった。
 すると、眼下には渡川が悠然と流れ、はるか向こうに香山の山の端が霞んでいた。
「何と美しいことか。山紫水明とはこのことか。」
 千雄丸は川の流れに沿って、黒金を走らせた。
 しばらく行くと、左手に立派な鳥居が目に入った。
 額束には『不破八幡宮』と銘打ってある。
 土佐一条氏の家祖、一条教房が石清水八幡宮より勧請した社である。
 本殿は少し上がった丘の上にあり、参道からきれいに敷き詰められた石段が伸びていた。
 黒金は前足で地面をしきりに蹴った。
「八幡ならば、わが家の軍神、お前も、血が滾るか。」
 千雄丸は黒金のうなじを撫でた。
 黒金は、ぐるりと首を回した。
 千雄丸は、手綱を引き締め、
「はいよー。」
 と、掛け声して、黒金の腹を蹴った。
 黒金は勢いよく駆け出し、一気に社の石段を駆け上がった。
「どう、どう、どう。」
 千雄丸は黒金を止めて、下馬した。
 眼前には大きな屋根の拝殿があり、神殿は朱や藍で彩られた絢爛豪華なものであった。
 千雄丸は拝殿に向かい、
「わが父、兼序も熱心なる寺社壮健の司であった。されど、何の咎を得てか、武運つたなく討ち死にしたもうた。この千雄、父の遺訓を受け継げど、いまだ元服もならず。もしこれに八幡大菩薩ありたもうなら、聞け、わが願い、この千雄にお家再興の願いをかなえさせ、絶えし岡豊八幡の神魂を安んぜさせよ。」
 と、声はまるで反芻するかのように拝殿内のがらんどうに響きわたった。
 千雄丸はそこを立ち去ると、黒金に飛び乗り、石段を駆け下りた。
 そして、そのまま土手に沿って黒金を走らせた。
 南から照らす太陽は川面に反射して、いっそうその眩しさを強めた。
 黒金はその中をまるで何かを蹴散らすかのごとく駆け抜けてゆく。
 千雄丸が目を細めた先に、渡川と寺後川の合流点が見えた。
「どう、どう、止まれ、黒金。」
 千雄丸は黒金を制した。
「よし、よし、よくぞ止まった。」
 千雄丸は黒金のたてがみを撫でた。
 黒金は小さく首を振った。  
「そうか、そうか。お前はまだ走り足りぬか。されど、河原にこのまま突っ込めば、お前の蹄を痛めるやもしれぬ。」
 千雄丸は黒金から降りて手綱を引き、河原に出た。
 水に手を浸けると、まだ温い。
 黒金は川面に口を浸け、水をがぶがぶと飲みだした。
 千雄丸は袴の裾を捲り上げ、川の中へと入った。
 ここは御所から半里以上は離れている。
 初秋の空はまだまだ眩しい。
 振り返ると、黒金はまだ水をがぶ飲みしている。
「余程、喉が渇いていたのだな。黒金。」
 黒金の漆黒の肌は陽光に照らされて艶を帯びている。千雄丸の言葉など、どこ吹く風。人に媚びるような馬ではない。
 千雄丸は袖をまくって、水をすくい、黒金の横腹に浴びせかけた。
 黒金は少しも動じるところがない。
 千雄丸は枯れ草を水に浸し、それで黒金の背を洗ってやった。
 黒金は気にもかける様子がない。
 そして、喉を潤したか、黒金は川面から顔を上げ、岸辺の草を食み出した。
 奔放な馬である。
 千雄丸は、川の水で顔を洗った。
 川の水は微かに潮の香りがする。
 千雄丸は岸に上がり、仰向けに寝そべると、空を見上げた。
 空には薄っすらと白い雲がゆっくりと西から東へと流れていた。
  

天6章 大文字 (その六) [天海山河]

 ある日、御所に来客があった。
 堀川信隆である。
「堀川殿、久々であるな。」 
 と、房家が声をかけた。
 信隆は、
「御所様にはご機嫌麗しく、ご尊顔を拝し奉り候。」
 と、慇懃に拝謁の礼をとった。
 房家は妙な心地がした。
「かように、堅苦しい礼はいらぬ。」
 と、いうと、
「何と仰せにございましょう。わが堀川家は一条家の家人にございますれば、当然のこと。それに、房家様は今や殿上人にございます。土居殿より、年の暮れにはご上洛なさると聞き及びましたゆえ、この大炊助、御所様をお出迎えの折に、不始末があってはならぬと、いろいろ段取りに参った次第にございます。」
 と、信隆は答えた。
「なるほど、その慇懃なる言葉使いも、まろが京に上った折に、貴殿の言葉にまろが驚いた様子をせぬようにとの心遣いであるな。」
 と、房家は信隆の顔を覗き込むと、信隆は、
「御意に。それに今日からは、わたくしめを大炊助とお呼び下さりませ。」
 といって、顔をほころばせた。
 
 房家は信隆と段取りの打ち合わせを終えると、
「ところで、大炊助。この日程であると、上洛は一年にも及ぶものになろう。まろは毎年わが父の供養を行っておるが、その御霊はこの奥御前に眠っておる。すでに父が亡くなって三十七年、祖父兼良公が亡くなって三十六年、尋尊僧正が亡くなって九年、叔父上からは三年が経とうとしておる。そのほか、わが一条家の者はみなこの世を去った。あるのは土佐のこの家だけ。それを思えば、この地にて一家の御霊を慰める祭事を行いたいと思うておるが、何かよい供養の方法はないであろうか。」
 と、訊ねた。
 すると、信隆は、
「それでは、送り火をなされてはいかがにございましょう。」
 と、いった。
「それならば、毎年の盂蘭盆にて行っておるが・・・。」
「いえいえ、それとはまた趣が異なりまする。」
「趣とな。」
「はい、今、京の都では先の戦禍で亡くなられた御霊を弔い、山肌にかがり火を焚いて、『大』の字を夜空に浮かび上がらせるのでございます。これを始められた日野殿は亡き禅閣様の縁者でござりますれば、まさにこれも何かの縁。きっと、よき供養となりましょう。」
 と、信隆はいった。
「そうか、それは良い案じゃな。盆も近いことである。今年から執り行おう。」
 房家は早速、孫太夫に執り行うのに丁度良い山を探させた。
 すると、まさに打って付けの場所が見つかった。
 それは、間崎という集落の西の端にある十代地山という小さな丘であった。
「なるほど、間崎は一宮の真向かい。一宮は幡多鎮魂の社。これに勝るところはあるまい。」
 と、房家は家臣に命じ、送り火の準備をさせた。

 七月十六日、房家は一家眷属を連れて、舟で川を下り、間崎の一宮の社で神事を執り行った。
 房家は出かける折、千雄丸を探したが、姿がない。
「誰か、千雄を見なかったか。」
 と、家人に訊ねると、一人の者が、
「馬を連れて、お出かけになられましたが。」
 と、答えた。
「どこへ出かけたか知らぬか。」
 と、問うと、
「さて、盆にございますれば、兼序寺に出向かれたのではなさりませぬか。」
 と、答えた。
 房家はそれもそうだと思い、
「では、千雄をそっとして置くか。」
 といって、出てきたのである。
 
 神事が終り、陽が沈むと、辺りがだんだんと暗くなってきた。
 房家は一行を伴い、舟に乗り、川の中ほどから十代地山の方を眺めた。
 すると、たいまつに点々と火がともされ、山の斜面に『大』の字が浮かび上がった。
「おお、なんと荘厳な景色であることかな。」
 見た者すべてが声を上げて、かがり火に見入った。
 これが、間崎の「大文字の送り火」である。今でも旧暦の七月十六日に執り行われ、古い由緒を有する珍しい送り火の一つである。

 夕闇が辺りを包む頃、かがり火は勢いよく燃え上がり、闇の中に一層大きく『大』の字を浮かび上がらせた。
 房家はかがり火に照らされ、ふいに何かが込み上げてきた。
 勇躍するかのような炎が、反って、命の哀切を偲ばせるのである。
 房家は落涙を袖で拭い、かがり火に向かって、手を合わせようとした。
 そのときである。
 眼前の川岸に、右手のほうから黒い影が現れた。
「狼藉者か。」
 家来の者らが騒ぎ立てる最中、
「どう。」
 と、一声が響き渡り、赤い炎に照らされて、前足を高く掲げた駒の姿が浮かび上がった。
「何と勇壮なる光景か。」 
 房家は、息を呑んだ。
 すると、馬から何者かが飛び降り、こちらに向かって会釈した。
 すらりとしたその影は五尺八寸はあろうか。立派な若武者の姿である。
「あれは、千雄ではないか。」
 と、房家は声を上げた。
 房家の気づかぬうちに、千雄丸は大きく成長していたのである。
 千雄丸はくるりと向きを変えると、かがり火に向かって手を合わせた。
 そして、再び馬に飛び乗ると、颯爽とその場を去って行ってしまった。

天7章 恵良沼 (その一) [天海山河]

 送り火の出来事以来、房家は千雄丸のことが気なってならなかった。
「孫太夫よ。千雄のこと、いかに思うぞ。」
 と、房家は訊ねた。
 孫太夫は、
「お気にかかるのでございますな。それがしも同様にございまするが、今はご上洛を第一にお考えあそばしたほうが、ようござりまする。」
 と、答えた。
「つまり、気にするなということか。」
「御意に。」
「されど、あの姿を見て、そ知らぬ顔もして居れぬ。それに、千雄はもう十三になる。武士の子なら、当に元服をしておる歳じゃ。」
「御所様、ご心痛は御察し申し上げまするが、もし千雄丸殿を岡豊に帰せば、中原の諸将は黙っては居りますまい。地は振るえ、土佐は戦禍に及びましょう。これまさに、虎の子を野に放すが如きものにござりまする。」
 と、孫太夫はいった。
 房家は、
「無論、まろもそう思わぬでもない。されど、千雄があの時の約束を信じて、日々健やかに成長しているというに、このまろが何一つしておらぬでは、一つに、まろが言葉は偽りとなろう。二つに、先代長宗我部殿は若輩のまろを国司として守り立ててくれた厚誼に反する。三つに、千雄が成長した折には、まろを深く恨むであろう。しからば、見捨てておくわけにもゆかぬ。」
 といった。
「中原の諸将が、千雄丸殿がこの一条家に匿われていると知っただけでも大事になりまするぞ。いかにして岡豊にお戻しになられまするか。」
 と、孫太夫が訊ねた。
 房家はしばらく考えて、
「そなたが策した天竺殿との誼の線があろう。天竺殿は吉良殿とも誼を結んでおる。大平殿はかつてまろが父を土佐に誘のうた縁がある。しからば、後は本山と山田を説得し、千雄が岡豊に帰還する承諾を得るのみではないか。」
 といった。
「それはたいそう壮大なる計略にございまするな。御所様のご威光は確かに土佐一円に靡いておりましょうが、本山は阿波の三好とも縁を結びし者にございます。いわば、御所様にとっては土佐随一の急先鋒にございます。まして、津野を引き入れ、香宗我部殿とも縁者にござりまする。大人しく言うことを聞きますでしょうか。」
 と、孫太夫はいった。
 房家はなかなかよい考えが浮かばないのか、扇子を手に、ぱちりぱちりと音を立てた。
「うむ・・・。ではことの始めに天竺殿に官位を与えるというのはどうじゃ。さすればほかの諸将も官位を得られるとして、誼を結ぶやも知れぬ。まろが父も、そのようにして、この幡多の庄を納めたではないか。その上で千雄丸の話を持ち込めば、同意も得られよう。」
「確かに、朝廷の認める官位ならば効き目はございましょう。されど、いかなるきっかけで、かの者らに官位を与えましょうや。官位を与えるきっかけは、これ千雄丸殿の仲介が叶ったときにしかござりませぬが。加えて、かつて平清盛が幼き源頼朝を生かしたために、平家は滅びもうした。それを例(ためし)に、中原の諸将どもは千雄丸殿に疑心を抱くこと、火を見るより明らか。」
 と、孫太夫はいった。
 房家は、また考え込んだ。
「ならば、いっそのこと、そのようにいたすか。千雄が岡豊に戻る承諾をしたあかつきには、官位を与えよう。上手くゆけば中原の争いを収めることもできるのではないか。それに、もしも、千雄が遺恨を散ぜんと中原に禍をもたらすならば、そのときは、このまろの手で成敗いたそう。」
 と、房家はいった。
「かように御所様が御覚悟ならば、そのように声を掛けてみましょう。」
 と、孫太夫は早速、天竺をはじめ、吉良、大平、山田、そして本山に使者を送った。
 
 案の定、千雄丸が一条氏に匿われていることを知った天竺、吉良、大平ら諸将は驚いた。
 しかし、これら土佐湾に湊もつ諸将は、一条氏との関わりも何かと多い。特に、明や朝鮮からもたらされる、高価な調度品は一条氏からでないと手に入れることはできない。
 そこで、天竺花氏、吉良宣忠、大平元国は房家の仲介を受け入れた。
 山田基通も明国の青磁に目がない。一条氏との誼も悪くないと考えていたが、本山養明のことが気にかかる。
 一方、養明は、一条氏の使を前にして、
「これは異なことを、それがしは一条殿には何の厚誼もなければ、岡豊を遺児に返すなど、承服でき兼ねまするな。」
 と、長く伸びたあごひげをさすった。

 使者がしぶしぶ帰ってゆくと、養明は長越前を呼んだ。
「越前よ、やはり元秀が遺児は中村に居ったようじゃな。」
「左様でございましたか。」
「中村が遠いことを良いことに、死んでもわしの目を掻い潜ろうとは、元秀も憎いやつよ。」
「誠に。しからばいかがいたしましょうや。」
「うむ。年の暮れに房家は上洛すると聞く。その隙に一条の分子どもを取り除かねばならぬな。」
「戸波の福井にございまするか。」
「そうじゃな。」
 といって、養明はにやりと笑った。

天7章 恵良沼 (その二) [天海山河]

 使者からの報せを聞いた房家は深くため息をついた。
「やはり、本山は拒んだか。」 
「はい、養明はなかなか手ごわい相手やも知れませぬ。」
 と、孫太夫はいった。
「そのようじゃな。」
 房家は爪を噛み、肘掛にもたれかかった。
―まろが上洛の隙に、養明は必ずや動くであろう。―
「孫太夫、まろが上洛の間、そなたはここに残って、房冬の補佐をしてくれぬか。」
 と、房家はいった。
 孫太夫は、目を丸くした。
「それがしは残るのでございまするか。」
「何か障りでもあるか。」
「い、いえ、そうではございませぬが・・・。」
 と、孫太夫はがっくりと肩を落とした。
「左馬助も残しておこう。」
「為松殿もでござりまするか。」
「そうじゃ。それに安並弥惣も残しておこう。」
「安並殿でございまするか・・・」
 と、孫太夫は少し不安であった。
 安並弥惣は剛勇ではあるが、やや粗忽なところがある。
 弥惣は、御所とは寺後川を挟んで北の丘の一帯に広大な所領をもつ地侍の出で、一条氏四家老の一人であった。
「無論、何か起こってはならぬ。房冬に甲冑を拵えておこう。」
 こうして、房家は、養明への備えを整えると、永正十三年師走、二男万寿丸を伴って上洛の途に着いた。
 
 京に上った房家は、桃花坊に入り、京一条氏の縁者と面会した。
「さてもさても、房家殿は亡き前関白殿の面影、いや、亡き御舎兄の大納言殿にそっくりでおじゃる。」
 と、中御門宣胤がいった。
「左様でござりまするか。」 
 房家は頬をさすった。
「左様とも。禅閣殿は天下無双の才であった故、どことなく険しさがおありであったが、関白殿や御舎兄殿は心穏やかで寛仁のお方であった。」
 と、宣胤は昔を懐かしんだ。
「ところで、中御門殿、宮中への参内のことであるが、・・・」
 と、房家がいった。
 宣胤は、
「そうでおじゃりましたな。その前に、此度、貴殿の大納言昇進が決まりもうした。それに来年、万寿丸殿には、一条家の当主としてふさわしき、正五位下の宣下がございましょう。その折に御元服なされるが宜しかろう。」
 といった。
「何ともこれはうれしいことか。誠に中御門殿には大層お世話になりもうす。」
「ははは、まろもかつては貴殿の祖父殿にお世話になりもうした。これはほんの恩返しでおじゃる。」
 と、宣胤は笑った。
 
 明くる永正十四年の正月、房家は禁裏、幕府に参賀し、四月には万寿丸の元服の儀を執り行った。
 万寿丸は房通と名乗り、ここに五摂家の名家、一条氏に土佐の血が入ったのである。
 
 ちょうどその頃、高岡郡吾井郷では異変が起きていた。
 吾井郷は津野元実の所領である。桑田(そうだ)山、勝森、名古屋峠に囲まれた谷あいの集落で、戸波郷とは境を接していた。
 そこに連日のごとく、福井玄蕃が現れたのである。
 玄蕃は戸波浦を塞がれた腹癒せに、郷に押し入って、まるで我が領のごとく、鹿狩り鷹狩りを繰り返した。
 それを知った津野元実は、
「おのれ、福井め、手打ちにしてくれよう。」
 といきり立ち、中平元忠を呼んで、
「兵庫助、直ちに兵を率いて、井場(いのおき)の城を陥れよ。」
 と、命じた。
 井場とは戸波本村ことで、辺りに恵良沼という大きな沼があったため、水が豊富なことからそう呼ばれた。
「お屋形様、お言葉ではござりまするが、井場は水深く、底も無しと聞きまする。かの城、西にその沼を天然の要害に大手を構え、そこから攻め入るは難儀。されば、東に兵を構えて攻め入らんとすれば、もし、敵に加勢あれば、逃げ口を塞がれ、二度とこの姫野々には帰っては来れませぬぞ。」
 と、元忠は反対した。
 元実は、
「そなた、怖気付いたか。かの者、山猿のごとく里におりて狼藉し、あわよくば洲崎の城を攻め取らんとしておるではないか。」
 と、激怒した。
 元忠は、
「この兵庫助、お屋形様がそうお思いであれば、一向に構いませぬ。されど、こたびの福井が狼藉、所詮、戸波の湊を塞いだ腹癒せにございます。福井は小身。余程、懐が苦しいのでございましょう。少々のことでこちらが動いては、急いてことを仕損じましょう。」
 と、言葉を返し、元実を諌めた。
 ところが、元実は、旧家の意地もあれば、家を興した自負もある。
 元実は、
「ならば、わしが全軍をもって玄蕃が首を取ってやる。」
 と、元忠に耳を傾けず、出陣を決めてしまった。
 元忠は、居城に戻ると、家臣に向かって、
「この度、我が本意ならずも、井場の城を攻めることとなった。かの城は難攻不落の要害、死は覚悟せねばならぬ。まして、福井は一条と手を組み、援軍が現れるやも知れぬ。我らはこれに備えなばなるまい。一層覚悟して、ことに掛かれ。」
 と、下知した。
 
 四月上旬、津野元実は市川石見、佐川越中、南部山城、吉村左衛門ら層々たる武人を引き連れて、戸波城を囲んだ。
 その兵、従士雑兵を合わせて二千余。迎え撃つ福井勢は、わずか二百余騎であった。

天7章 恵良沼 (その三) [天海山河]

 戸波本村を流れる波介川は、今は河川改修で川がまっすぐに流れているが、当時、本村と戸波城は細い尾根で繋がり、その尾根にぶつかると、大きな淀みをつくり、城山をぐるりと囲むかのように流れていた。
 淀みは恵良沼と呼ばれる底なしの沼である。また、城の大手口は細い尾根の上にある。
 元実は、大手口がよく見える琴引神社に本陣を置いた。
 そこは恵良沼を挟んで城の対岸である。
 しかし、ここに一人、この陣容に懸念する者がいた。
「お屋形様、本陣は上本村に置かれませ。ここでは敵に背後を突かれれば逃げ場を失いまする。」
 と、中平元忠はいった。
 しかし、元実は、
「何を言うか。見ての通り、勝機は我らに有り。古より、城を攻めるはこれ敵の五なるを以てせよと云う。敵は二百や三百の小勢。われらはその十倍はあろうかというものぞ。あの城は時を経ずして落ちよう。」
 といって、指差した。
 元忠は、
「畏れながら申し上げまする。あの城は名うての将とて三日では落とせませぬ。寡兵侮るべからず。少兵は籠城に利がございます。加えて、この地は背後の山が高く、もしも一条の軍勢が現れればその動き見え難く、危険にございます。どうか、本陣を動かし下さりませ。」
 というやいなや、元実は、眉を吊り上げ、
「よいか、元忠。もし、わしが敵の急襲を恐れて、本陣を動かせば、これ我が軍の士気にもつながるであろう。それほど、そなたがわしの背後を危ぶむならば、そなたは洲崎の城へ赴き、一条が兵を迎え撃って。」
 と、元忠を洲崎へと追いやった。

 洲崎へ退却する途中、元忠は、ふと、空を見上げた。
 黒い雲が空一面を覆わんとしている。
「お屋形様がかように城攻めを急がれるのは、一つ、本山殿が差し金であろう。また一つ、これお屋形様の武威高揚なるが故の驕りであろう。われら、ゆめゆめ気を緩めず、背後の守りを固めんや。」
 と、元忠は家来の者に愚痴をこぼした。
 
 一方、元実は床几の上にどっかりと腰を据え、全軍を指揮して、寄せ手二千騎を大手口へ殺到させた。
 これを迎え撃つ福井玄蕃は、細い尾根に幾重にも柵を拵え、わずかな兵でこれを防いだ。
 元実は、押せや揉めやと、次から次へと新手を繰り出し、柵を一つ一つ取り除いていった。
「お屋形様、柵は三つ、落ちましてございます。」
 と、伝令の者がいった。
「見てみよ。見てみよ。元忠め。知れば洲崎で恥じ入るであろう。この城は今宵のうちにも落ちようぞ。」
 と、元実は笑った。
 すると、ポツリポツリと、雨が降ってきた。
 雨は次第に勢いを増し、ついに本降りとなった。
 視界も悪く、足場はぬかるみ、細い尾根から滑り落ちる者も出た。
 旧暦の四月といえば、今で言うちょうど入梅の時季である。
「こしゃくな雨よな。もう一夜後ならばこの城を一気に落とせたものを。」
 と、元実は早々に兵を引き取らせ、各所で雨宿りさせた。
 これを見た、福井玄蕃は、
「しめた。」 
 と、奇声をあげ、不気味に微笑んだ。

 夕刻、城の南から暗がりにまぎれて、一人の男が川を渡った。
 男は浅井村を通って山を越え、浦ノ内から野見へ抜けると、小舟を漕ぎ出し、久礼へと向かった。
 男は岸に上がると、一目散に駆け出して、久礼城の佐竹義之に目通りした。
 男は、
「我が主、福井玄蕃は、佐竹殿に援軍を乞い申し上げまする。」
 といった。
 佐竹義之は、ぽんと膝を叩き、
「よし来た。すぐに玄蕃殿のところへ参ろう。そなた、来た道を案内せい。誰か早馬にて中村へ注進せよ。他の者はわれに続け。」
 と、千騎の兵を率いて、闇夜のうちに飛び出した。
 佐竹軍は、闇夜にまぎれ海を渡ると、戸波浦から道幅の広い戸波浦道ではなく、浅井村に抜ける小道を選んで進んだ。
 
 夜半、雨は小降りとなり、佐竹軍は浅井村を通って、琴引神社の裏手、和田村に至った。
 佐竹義之が合図をすると、わっとたいまつに火が点され、鬨の声をあげて津野元実の本陣に襲いかかった。 
「何事じゃ。」
 元実が叫んだ。
「奇襲にございます。」
「なに、奇襲じゃと。いずれのものぞ。」
「佐竹のようにございます。」
「何ゆえ佐竹が参ったか。」
「分かりませぬ。」
「いったいどれほどか。」
「千、いや二千かと。」
「戯け、佐竹にそれほどの兵がまかなえるか。われらは二千ぞ、迎え撃て。」
 元実は馬に飛び乗り、太刀を抜き、襲い掛かる佐竹の兵を次から次へと切り捨てた。
 ところが、浮き足立つ津野勢は、闇の中を逃げ惑い、知らぬ間に恵良沼に足を踏み入れて命を落とす者が後を経たない。
 ついに津野勢は総崩れとなり、気付けば元実も恵良沼の畔にあった。
 対岸の味方も福井勢に襲われて、散り散りになって逃げ出し、残る兵は僅かである。
 もはや、勝敗は決した。
 見れば、そこに退路はない。
 前は火の山、後は泥の池である。
 元実は馬の鞍笠に立ち上がり、
「われは津野刑部少輔元実なり。われこそはと思わん輩は、わが首をとって功名に備えてみよ。」
 と、敵中に駆け入り、四方八方斬り回し、刃こぼれ、草摺り切れるまで戦い、無数の傷を受けて、
「ううん。」
 と、断末魔の雄たけびをあげて息絶えた。
 永正十四年四月十三日、一族従士五十三人、雑兵三百八十余人、一所にて討ち死にす。津野刑部少輔元実、享年三十六歳、元亨院勇公と諡されて、洲崎下分郷に眠る。

天8章 花姫 (その一) [天海山河]

「お屋形様、津野殿が討たれたようにございます。」
 と、長越前がいった。
「そは誠か。」
「はい、功を焦り、一条の援軍に背後を突かれたとのことにございまする。」
「越前、津野殿は焦ったのではない。己が勇に驕ったのじゃ。」
 と、本山養明はいった。
「さすがはお屋形様、この越前、とんだ失礼をいたしました。」
 と、長越前は頭を下げた。
「しかし、これではな・・・。」
 本山養明は戸波を津野元実に落とさせ、房家を牽制しようと考えていたのだが、的が外れてしまった。
「越前、津野は持ちこたえるか。」
 と、養明が問うた。 
 長越前は苦笑いを浮かべ、首を横に振った。
「持ちこたえぬか。」
「御意に。将卒はあまた討たれ、四百余の屍をさらしたとか。」
 と、長越前はいった。
「生き残った将卒の中に、これといった者はおらぬか。」
「中平殿がおられまするが、戦には加わっていなかったようにございまする。」
「何故ぞ。」
「津野殿の勘気を蒙ったようにございます。」
 と、長越前はいった。
 養明はしばらく思案した。
 津野は一条を押さえ込むにはなくてはならぬ相手である。援軍を送り、津野を立て直せば、まだ一条と伍することも可能だろう。しかし、中平元忠が気にかかる。養明が津野元実に促した戦に、主君の勘気を蒙り、戦線を離脱した者が、快く援軍を受け入れるであろうか。
「様子を見るしかあるまい。」
 と、養明はつぶやいた。

 中平元忠は元実が討たれると、家来の者を姫野々城に送り、要害を固めさせた。
 姫野々には元実の嫡男、孫次郎がいた。このときまだ二歳の幼児である。
―一条はこの機を逃さずせめて来るやも知れぬな。―
 と、元忠は策を練った。

 そのころ中村では、津野元実が討たれたとは知らず、兵士たちが御所にせわしく出入りしていた。
 留守を預かる一条房冬は、着慣れぬ甲冑を装い、着せ替え地蔵のごとく、身体が紫縅の鎧に埋もれているようであった。
 土居孫太夫は、
「若様、手筈通り、安並殿を戸波へ使わせましょう。」
 と、進言した。
 勿論、若い房冬は武芸の心得がなく、軍略も理解できない。
 房冬は、ぎこちなく、
「左様いたせ。」
 といった。
 孫太夫は、
「畏まり候。」
 と返じ、安並弥惣、出間九郎兵衛に一千の兵を与えて戸波へと向かわせた。
 その間際、孫太夫は安並弥惣に、
「弥惣殿、決して、功を急いではなりませぬぞ。」
 と、忠告した。
 ところが、弥惣が戸波城に入ると、すでに敵の影はない。功をあげることもできなければ、すでに敵を蹴散らした佐竹義之の風下である。
 弥惣はこれが我慢ならなかった。
 弥惣は、出間九郎兵衛に、
「土居殿は、戦場を知らぬ。わしとそなたは歴戦の兵、津野の落ち目を突かずして、これ軍略といえるものか。」
 と、愚痴をこぼした。
「左様。ここは一気に津野の所領を攻め取らん。」
 と、出間九郎兵衛も同意した。

 翌日、弥惣と出間九郎兵衛は手勢を引き連れて、洲崎の城を目指した。
 名古屋坂を越えて吾井郷に入ったところ、百姓どもが荷車に米俵を載せて、街道の傍らで土下座をしているではないか。
 百姓の一人が、
「われらはこの村の名主にございます。それにおわすは一条様がご家門とお見受けいたし候。われら、ここに武具を納め、一条様に降を乞わん。」
 と、刀、槍を差し出した。
 弥惣は、
「これは殊勝なることかな。よきに取り計らわん。」
 というと、百姓どもは歓喜した。
 名主は、
「これはほんのお近づきのしるしでございます。」
 と、荷車を指差した。
 弥惣は、これを見て、
「心得のある者どもよ。まこと殊勝なり、殊勝なり。」
 と喜ぶと、名主は、
「せっかくにございます。あちらの社にて饗応の用意が整ってございまする。どうぞそちらへ。」
 と、手招きして、社へと歩いていった。
 弥惣は招きに応じ、行こうとすると、出間九郎兵衛が、
「安並殿、これは何かの罠ではござりませぬか。」
 と、百姓どもを怪しんだ。
 しかし、弥惣は、
「これは先勝の祝いよ。郷民どもも、もはや首領が討たれては、行く末覚束ずと思うてのことであろう。それに、刀、槍をわれらに納めておる。これは戦う意思のないことのあらわれである。」
 と、名主の後を付いて行った。
 社に入ると、百姓どもは酒肴を振る舞い、囃子を立てて舞い踊った。
 しばらくすると、兵卒どもは名古屋坂を越えてきた疲れが出たのか、こくりこくりと居眠りを始めた。
 弥惣と出間九郎兵衛も、眠気に襲われ、
「これは・・・なかなか・・・よき酒・・・じゃ・・・。」
 と、眠りこけてしまった。

 弥惣と出間九郎兵衛は、夢のなかで、愛想のよさそうな男が声をかけて来た。
「これこれお酒はもうよいか。」
 と問うた。
「もうようござる。」
 と、二人が答えると、
「ではでは、麻生が村の名物の麻縄はいかがでござるか。」
「それはなかなか良きものと聞く。」
 といえば、
「左様でござる。左様でござる。これはなかなか丈夫き縄にござる。どうれ、お試しなさいませ。」
 といって、愛想のよい男は二人の手足に縄を捲いた。
「これでようござるか。」
「ようござる。」
「左様でござるか。ではでは参ろうか・・・。」

天8章 花姫 (その二) [天海山河]

 弥惣と出間九郎兵衛は、しばらく夢うつつの中で、ゆらりゆらりと宙に浮いている心地がした。
 すると、白もやの中から、
「おい、起きろ。」
 と、野太い声が聞こえてきた。
「いや・・・もうしばらく・・・、もうしばらく。」
 と、弥惣がいうと、
「おい、起こせ。」
 と、野太い声がした。
 すると、バシャっと、音がするや否や、あまりの冷たさに、
「うひゃー!」
 と、弥惣と出間九郎兵衛は飛び起きた。
 見れば、身体はびしょびしょに濡れ、手足には縄目をかけられて、身動きが取れない。
「どうじゃ、麻生の麻縄と姫野々の名水は。」
 と、野太い声の男がいった。
 弥惣と出間九郎兵衛が男を見ると、
「あー!」
 と、声を上げた。
 そこに立っていたのは、さっきまで酒を振舞っていた吾井郷の名主である。
 男は肩に小さな童子を抱えると、 
「若君、この者たちがお父上の仇にござりまする。この兵庫助がすぐに手打ちにいたしましょう。」
 といった。
 そう、あの名主は中平元忠であった。
 弥惣と出間九郎兵衛は、まんまと元忠の罠にかかってしまったのである。
「安並殿、わしが申した通りではないか!」
 と、出間九郎兵衛が縄目の下から地団駄を踏んだが、後の祭りである。
「おのれ謀ったか!卑怯なるぞ!」
 と、弥惣は罵声を浴びせた。
 元忠は意にも介さず、縁の上から二人を見下して、
「ご両人、古より策を用いるは卑怯なことにあらず。敵領にうち入り、油断することこそ、それ己が不覚と申すものぞ。」
 といって、にやりとした。
「くそー!」
 弥惣は元忠に飛び掛ろうとしたが、縄目をかけられては思うようには動けない。
 地面にばたりと倒れて、芋虫のようにぐねぐねと身体をくねらすだけであった。
 元忠は、
「そなたらの首を亡きお屋形様の墓前に備えん。」
 と、家臣に命じて、弥惣と出間九郎兵衛の首を打ち落とした。
 弥惣と出間九郎兵衛の首は姫野々の辻にさらされ、後に化粧を施されて、中村へ送られた。

 土居孫太夫は、弥惣と出間九郎兵衛の首桶を覗き込み、
「わしがあれほど軽率を戒めたというに・・・。」
 といって、まじまじと二人の顔を見た。
 髪はきれいに結われ、口には紅を塗られ、お歯黒が施されている。
「なんと、これほどの武門の心得を持つものが、あの山里にもおるというのだな。」
 と、孫太夫は首を送った者に感心した。
「では、わし自ら、この中平なる者の顔を見聞せん。」
 と、孫太夫は二千の兵を引き連れて、姫野々へと攻め寄せた。

 姫野々は狭い谷間の集落である。
 城山は天に向かってそそり立ち、麓には新荘川が岩を削るかのように流れている。
 谷間の幅は一町ほどで、平地はなく、家屋は斜面に石垣を築いて、建てられている。
 中平元忠はこの天然の要害を活かし、連なる峰々に砦を拵えて待ち構えていた。
 孫太夫は、谷の入り口に陣取ると、敵の陣容を見て、
「これはなかなかの構えかな。容易に攻め入れば敵の思う壺。ならば糧を断ち、家屋に火をかけ、兵糧火攻めにせよ。」
 と命じた。
 一条軍は道の箇所箇所に関所を構え、兵糧を断ち、家屋に火をかけて、立ち上る煙で姫野々城を燻した。
 中平元忠は頑強に耐えたが、さすがに参ったか、城から矢文を放ち和睦の意を示した。
 矢文には、
―こたびの儀、主君のために一矢報わんと思い立ち、我が一意にて及びしこと。幼主孫次郎君にはいっさい関わりなきこと。故に、この中平兵庫助の命と代えて一条殿に和睦を乞いたし。願わくば、積年の遺恨を断ち、孫次郎君と一条殿が姫を娶わせ、和睦の証といたし、ご門にお加え下されたし。―
 と、書いてあった。
 孫太夫は、
「これは驚いたな。中平殿はなかなかのご仁と見た。しかし、これはわしの一存では決められぬ。京へ早文を送れ。」
 と、使者を京へと上らせた。


天8章 花姫 (その三) [天海山河]

 京では、房家が禁中へのあいさつ回りで忙しかった。
 この頃、公家の多くは地方の有力者に寄食して、細々と暮らしていた。
 無論、土佐の辺境から現れたこの房家も重宝がられたことは言うまでもない。
 在京中、房家が、一種ばら撒いた財は破格のものであったという。
「なに、土佐から早文が届いたと申すか。」
 房家は文を開くと、仰天した。
「なんと、津野殿がわが門下に加わらんと申すか。しかし、まろには津野殿と娶わせるにちょうど良き姫はおらぬ。誰かよき姫をまろが養女といたし、津野殿に娶わせるがよい。」
 と、返した。

 孫太夫はその報せを受け取ると、家老の中から姫を選び出し、房家の養女にして津野孫次郎と娶わせることにした。
 孫太夫は、
「まずは中平殿をここへ召せ。」
 と、家来に命じた。
 中平元忠は白装束を身にまとい、月代を剃り、一人で孫太夫にまみえた。
「これはたいそうなお振る舞い。さすがは津野の武士であることよ。」
 と、孫太夫が感服した。
「これはお褒めに預かり、有難き幸せ。」
 と、元忠は返答した。
 孫太夫はその立派な振る舞いに、いよいよ感服した。
「して、こたびの和睦でござるが、御所様はご了解なされた。」
 というと、元忠は、
「このたびの一条殿のご恩沢、誠に有難く存じ候。」
 といった。
「では、双方より、こちらからは姫君を津野殿に、そちらからは津野殿がご簾中を一人、人質として中村に送っていただく。これに相違ないか。」
「相違ござりませぬ。これで、この兵庫助、もう思い残すことはござりませぬ。」
 と、元忠はいった。
 その堂々たる振る舞いに、孫太夫は、殺すのが惜しいと思った。
「ところで、中平殿、わしは少々解せぬことがある。」 
 と、孫太夫はいった。
「解せぬと申されますと。」
「いや、そなたほどのものが、この谷間の城に籠城すれば、いずれ降参すると思うたのではないか。その上、わがほうの者を生け捕り、首を刎ね、送り返すとは、まるでこちらを攻めよというようなものである。」
 と、孫太夫がいった。
「これは異なことを申されまする。それがしは、ただお屋形様への奉公を致したまで。戦に負ければ、その責をとって討ち死にするのみ。」
 と、元忠は答えた。
 そのとき、孫太夫は、元忠という男の心底を察した気がした。
「いや、そうではあるまい。そなたは軽々に命を粗末にするような武士ではないな。命と引き換えにするだけの訳があるのじゃな。」
 と、孫太夫はいった。
 元忠は、
「ははは。」
 と笑い、
「われは生まれてこの方の、いごっそでござりますれば。」
 と豪語した。
 孫太夫は、その胆太さ、男振りにつくづく感服した。
「左様か。もう思い残されることはないか。」
「ござりませぬ。」
 と、元忠は返した。
 孫太夫は、新荘川の畔に白い幕を張り、高座を拵えて、元忠にふさわしい死場を用意してやった。
 元忠は幕の内に入ると、腹を七の字に切って、息絶えた。
 孫太夫はその遺骸を丁寧に荼毘に付した。
 
 孫太夫は中村への帰途、元忠の心中を慮った。
 一条憎しで突き進む津野元実の下、諫言も聞き入れられず忠を尽くす元忠は、名門津野氏を裏で操ろうとする本山養明のやり方が許せなかったのであろう。
 戦と元忠の死は元実への忠であり、そして、元実の意志を曲げて一条に降ったことはお家への義であったに違いない。
 それが、元忠の『いごっそ』ということなのであろう。
「まっこと惜しい男を失いもうした。失いもうした。」
 と、孫太夫は空を舞うひばりに向かってつぶやいた。
 
 後年、土佐が山内氏の治下にあった頃、高知城下に蔵屋という紙を扱う豪商があった。
 当時、紙は土佐藩の名産として、御用商人のみに商いの特許を与えていた。
 それをよいことに、藩の役人どもは蔵屋と結託して、蔵屋に紙の原料である三椏(みつまた)、楮(こうぞ)を法外な安さで買い叩かせた。
 姫野々の奥、津野山郷は三椏、楮の産地であったが、山がちで田畑が少なく、郷民は年貢をこれら紙の原料の代金で納めていた。
 しかし、蔵屋のせいで、郷民の生活は逼迫し、明日をも知れぬ状態になった。
 そこで、この地の大庄屋、中平善之進という男が、藩に強訴しようと立ち上がった。
 ところが、役人どもはそれを知って、先を越されまいと、善之進を捕らえ、白州へとしょっ引いた。
 無論、奉行は役人どもの手の者である。
 善之進はろくな裁きも受けられず、打ち首のために、津野山郷を見渡せる「風早の峠」に引き出されてしまった。
 ところが、それと時を同じくして、藩庁では審議の末に、善之進の罪一等を免じるとの沙汰が下った。
 使者は慌てて、津野山郷へと駆けつけたが、そのときすでに善之進は斬首されたばかりであったという。
 今でも、中平善之進を義民と讃え、「風早の峠」の近くに祀られている。

天8章 花姫 (その四) [天海山河]

 津野氏が一条氏の軍門に下ったことを知った本山養明は、大いに落胆した。
「さても、何故かような事と相成ったのか。」
 と、養明は長越前に訊ねた。
「家老の中平めが、一条の姫君を幼君に娶わせることで和議を申し入れたとのことでございまする。」
 と、長越前は答えた。
「あれほど一条に業腹をにやしておった津野殿が、こう易々と敵と婚姻を交わし、その門下になるものか。」
「どうやら、中平めは亡き元実殿と志に違いがあったようにござりまする。」
「口惜しや。」 
 と、思わず、養明は手に持っていた扇子を、床に叩きつけた。
 養明は、
「越前、ここは詮方なし。わしが一条に抗したとて、付き従う中原の将は居るまい。ここは一条の仲裁を受け入れ、元秀の忘れ形見に岡豊を返してやるしかあるまい。」
 といった。
 
 長越前が戦勝の祝いを携えて、中村を訪れたのは、間もなくのことであった。
「此度の儀、誠におめでとうござりまする。」
 と、越前は一条房冬に祝辞を述べた。
「遠いところはるばる大儀である。」
 と、房冬は応えた。
 すると、傍らに座していた土居孫太夫が、
「これは長殿、わざわざ戦勝の祝いとは、いかがなされたかな。」
 と、ちくりと突いた。
 越前は一瞬返答に戸惑ったが、咳払いを一つ入れて、
「わが主は、偏に土佐の安泰を一条様と約さんと思し召されたのでございまする。」
 と、答えた。
「左様でござったか。では、千雄丸殿の件をご承知なされたのだな。」
「無論、承知に候。」
「では、これをもって、本山殿と長宗我部殿の和議といたそう。以降、決して干戈を交えることの無きよう、心得られよ。」
 と、孫太夫はいって、返礼の品を越前に持たせて、本山へ帰した。

 土佐での一件を伝え聞いた房家は、
「孫太夫にこう伝えよ。まろはもうすぐ土佐に戻るゆえ、千雄丸のことは帰った後にいたすと。またその折に元服の儀をいたすとな。」
 と、使いの者を送り返した。
 この頃、房家は一大行事の準備に追われていた。
 それは、後柏原天皇との謁見であった。
「大納言殿、ご準備は進んでおられるかな。」
 と、中御門宣胤が左右を人に抱えられながら、陣中見舞いにやって来た。
「これは中御門殿、それはいかがなされたのでおじゃるか。」
 と、房家は綿入りの茣蓙を差し出した。
「いやいや、気遣いは無用におじゃる。まろも、ちと年を取ったのかのう。けつまづいて、足を痛めたでおじゃる。」
 と、宣胤は年甲斐もなく照れ笑いした。
「そうじゃ、そうじゃ。まろのことより、そなたのことで参ったのじゃ。」
 と、宣胤はいうことが聞かない身体に反して、口は饒舌であった。
「と、申されますと。」
「無事、万寿丸殿の元服は終わったことだが、実はな、土佐におられる貴殿がご嫡男殿の嫁探しについてじゃが、まろに心当たりのある姫君がおる。」
 と、宣胤はもったいぶった言い方をした。
「房冬にでおじゃりまするか。」
「なんじゃ、ご子息にはすでに妻女が居られたでおじゃるか。」
「いえ、居りはいたしませぬが、幾分、急なお話でおじゃる故・・・。」
「ははは、なにもなにも、ご子息はもう二十歳になろうかという歳、遅くはないではおじゃるか。」
「はあ。」
「とにかく、良きご縁談と存ずるぞ。お相手は伏見宮邦高殿がご息女お玉殿じゃ。」
 と、宣胤はいった。
「なんと、・・・。」
 房家は驚いた。
 そうなるのも無理はない。伏見宮家はかつて祖父、兼良を絶賛した後崇光院の第二子より興った家柄で、第一子の後花園天皇の孫である後柏原天皇とは最も近い血縁関係にある。
「どうじゃ。驚かれたか。」
 と、宣胤は得意気にいった。
「いやはや、これは何と申したらよいか・・・。」
 房家の様子に、宣胤はますます上機嫌になった。
「そうであろう、そうであろう。されど、これは貴殿が祖父、禅閣殿のご縁である。遠慮なさることはない。そこで、少し相談があるのでおじゃるが・・・。」
「相談と申されますと。」
「いやな、大納言殿も見ての通り、京の公家衆は何かと貧しておる。お玉殿を足下がご子息に嫁がせようと思うたのも、裕がなる故でおじゃる。今や摂家衆も地縁遠縁を頼って、京を出たり入ったりとでは、帝の政もおぼつかぬ。今上の君は帝に就かれて、はや十六年が過ぎるというのに、即位の礼もあげられずに居られる。まろはご覧のとおり、歳も取っておる。老い先短き身の上じゃ。そこで、房冬殿に上洛していただき、幼き房通殿を補佐し、帝が政を守り立てていただきたいのじゃ。」
 と、宣胤はいった。
 房家はこういう類の懇願に弱い。
「それほどまでにお思いでおじゃりましたか。房家、確かにお承りいたしましょう。」
 と、目に涙を浮かべながら承諾した。

「おう、受けてくれるか。ありがたや、ありがたや。それと、ああこれ、祥(よし)、こちらへ参れ。」
 と、宣胤は回廊に控える侍女を呼んだ。
 年の頃は十三、四ほどであろうか。女ごにしては、やや背の高い娘である。
 娘は部屋に入ると、頭を下げ、
「お祥にございます。」
 と、挨拶をした。
「この姫君はいったいどなたでおじゃるか。
 と、房家は宣胤に尋ねた。
「この姫は斎藤大和守がご息女じゃ。」
 と、答えた。
 斎藤大和守とは美濃の守護代、斎藤利良(としなが)のことで、これもまた、祖父兼良の縁者であった持是院妙椿のひ孫である。
「何ゆえ、美濃のご息女がかようなところに居られるのでおじゃるか。」
 と、房家は理解し難かった。
「これも因果なことでおじゃる。今、美濃は守護の土岐殿のお家騒動で修羅場となっておる。そこで、大和守殿が一人娘の身を案じて、都に上らせたのでおじゃる。いばらく、まろの身の回りの世話をしてもろうておったのじゃが、そろそろ嫁にも行かせねばならぬ年になった故、婿を探しておるのじゃが、これといったご仁はおらぬでな、よければ貴殿に預け、よき者が居ればそれに嫁がせてほしいのでおじゃる。無論、大和守殿の許しも得ておる。」
 といって、お祥を房家に預けた。

 永正十四年十月五日、房家は後柏原天皇との謁見を無事に済ませると、同月十二日、京を立って、土佐へと向かった。
 房家は宣胤との約束通り、房冬を都へ送ったが、玉姫と結婚したのはそれよりずっと後の永正十九年になってからであった。
 実はこれには訳があり、房冬自身の問題として、その官位が低かったことと、大内義興が突如として兵をまとめて周防に帰ったため、京の政情が不安になったこと、さらに、政情不安から来る禁中の政が滞ったことによる房冬の昇進が遅れたことにあった。
 無事に婚姻を済ませたときには、その前年に中御門宣胤はこの世を去っていた。

天8章 花姫 (その五) [天海山河]

 四万十川の河口に下田という小さな港町がある。今はすっかり僻村の風情を漂わせるこの港も、かつては土佐で最も栄えた、にぎやかな湊町だった。

「みなの衆、御所様のお帰りじゃ。」
 町外れの高台の上から、舟守が大声で叫んだ。
 房家を出迎える土居孫太夫をはじめ、為松左馬、敷地藤康ら一条氏家臣は浜岸に駆けつけた。
 その中に、千雄丸と近藤正時の姿もあった。
 青い大海原の彼方に、下がり藤の帆を掲げた船が、こっちらに向かってゆっくりと進んで来ている。
「おお、御所様、いや、大納言様がご無事に戻られたぞ。」
 と、孫太夫は集まった群衆に向かって高揚をあおるかのように言った。
 群衆はどよめき、心を躍らせて、大海原の一点を見張った。
 下田湊の船着場は渡川の河口にできた細長い砂洲をぐるりと回った、入江の奥にある。
 帆船は次第にその姿を大きくし、孫太夫ら群衆の前を通り過ぎると、砂州を回って、入江の中に入ってきた。
 群衆は船の後を追って、船着場へと集まった。
 船から足場がかけられると、房家がゆっくりと降りてきた。
「わっ。」
 と、群衆が声を上げた。
「土佐から大納言様が誕生されたぞ!」
「晴れがましきかはな、晴れがましきかな!」
 群衆は歓喜を持って房家を出迎えた。
「みなみな、達者で何よりでおじゃる。」
 と、房家は群衆に優しく応えた。
 すると、群衆は、
「わっ!」
 と、再びどよめいた。
「さて、さて、どうしたものかな。」
 房家がどよめきに戸惑っていると、群衆の一人が、
「大納言様ともなれば、お言葉もお変わりになられるようじゃ。」
 といった。
 房家は、京での一年にも及ぶ滞在中に、すっかり京訛りが染み付いていた。
「そうであったか。まろも気がつかぬでおじゃった。」
 と、房家は頭を掻いた。
 すると、群衆は、
「わっ!」
 と、三度どよめいた。
 しばらくすると、群衆を掻き分けて、孫太夫がやって来た。
「御所様、お帰りなさいませ。」
「孫太夫、留守ご苦労であったな。まろが不在の間、よくやってくれた。礼を言うぞ。」
 と、房家は群衆に囲まれているうちに、いつの間にか土佐のなまりに戻っていた。
「ありがたきお言葉にございまする。」
 と、孫太夫はいった。
 房家は、集まった家臣どもを見渡すと、列の後に居た千雄丸と正時を見つけた。
「おお、わざわざ千雄丸に正時殿も来て居ったか。」
 と、房家が二人のそばに近寄ると、
「お帰りなさいませ。」
 と、千雄丸と正時が挨拶した。
 千雄丸は、いつの間にか正時より頭一つ分大きくなっていた。
 房家は、
「千雄よ、見ぬうちに大きくなったのう。」
 と、千雄丸をまじまじと見た。
「長年の御所様の御慈悲のおかげにございます。」
 と、千雄丸がいった。
「そうかそうか。千雄よ。よい報せじゃ。そなたの元服のことじゃが、細川高国殿より一字を賜っておる。御所に帰ったら、早速、そなたの元服の儀を執り行おうぞ。」
 と、房家はいった。
「誠にありがとうございまする。」
 千雄丸は深々と頭を下げた。
 房家は大きく頷き、傍らの正時を見て、
「正時殿もよくここまで耐えてこられたな。」
 と、ねぎらいの言葉をかけた。
「返す返すも、御所様には感謝の極み。太郎兵衛、恐悦至極に存じ奉り候。」
 と、正時は思わず落涙した。
「御所様、まずは何より、長旅でさぞやお疲れにございましょう。輿を用意しておりまするゆえ、それにて中村へお入りなさりませ。」
 と、孫太夫はいった。
「それはありがたい。ではそれで参ろうか。」
 房家は孫太夫に誘われ、群衆の中を進んでいった。
 船からは、上方の珍しい品が港に下ろされ、それ見たさに童が集まっていた。
「見ろ、あれは女子ぞ。上方の女子じゃ。珍しき見物じゃあ。」
 と、悪戯好きの悪がきどもが、祥を見咎めて、はしゃぎ立てた。
 祥は、その悪がきどもを尻目に、
「ふん。」
 といって、前を通り過ぎた。
「かー!ふてぶてしい女子ぞ。背丈ばかりでっかい、化け女め!やーい!」
 と、悪がきどもは祥をからかった。
 祥は、振り返って、
「こらー!」
 と、女伊達らにこぶしを上げると、
「わーい。」
 と、悪がきどもは奇声を上げて駆け出していった。
 祥は口をつんと、尖らせて、うつむき加減に房家の後を付いて行った。
 その様子を見た孫太夫は、
「御所様。あの姫君はどなたのございましょうや。」
 と、房家に尋ねた。
 房家は、
「ああ、そうであった。紹介せねばならぬな。これ、お祥よ。これへ。」
 と、祥を近くに呼び寄せ、
「これは美濃、斎藤大和守殿がご息女の祥姫殿じゃ。しばらく当方で預かることとなった。」
 といって、祥を出迎えの家臣どもに披露した。
 祥は、笑顔を繕い、
「祥にございます。何卒、お見知りおきをお願い申し上げます。」
 と、やや小さな声で挨拶した。
「ほう、これは器量の良き姫君でございまするな。」
 と、家臣の者どもはさっきの悪がきどもと同様に、珍しいものでも見るかのように祥を見た。
 房家は、
「みなみな、祥にとってはここは見知らぬ土地ゆえ、親切にしてやってくれ。」
 といって、祥とともに輿に乗った。

 房家が中村御所に入ったのは、それから半刻が過ぎた頃だった。


天8章 花姫 (その六) [天海山河]

 その夜のことだった。
 房家の帰郷で昼間騒がしかった御所の内も、子の刻頃になると、家中の者は皆、騒ぎ疲れて寝床に入り、寝静まって、しんとしていた。
 ただ一人、千雄丸だけは、昼間の興奮覚めやらず、寝床で寝返りを何度も打っていた。
 千雄丸は時折、
―父上、母上、姉上。千雄はやっと岡豊に帰れますぞ。―
 と、心の中で唱えていた。
 そのときである。
 部屋の外から微かにではあるが、かさかさと、着物の裾を摩って歩く音がした。
 足音から怪しい者ではないだろう。
―この夜更けに、一体何者か。―
 千雄丸は起き上がり、障子を少し開いた。
 すうっと、冷たい空気が部屋に入り込んできた。
 千雄丸は身震いしながら、音のする方に目を凝らした。
 すると、庭の辺りに少女らしき影が月の光に映し出された。
 千雄丸はとっさに障子を開き、
「そなた、何をしておる。」
 と、声を掛けた。
 少女は、はっと立ち止まり、千雄丸の方を見た。
 千雄丸は目を細めて少女の顔を見ると、
「そなたは・・・。」
 と、思わず声を上げた。
 そこに居たのは、祥であった。
 祥はとっさに顔を手で覆い、うずくまった。
 千雄丸を宿直(とのい)の者と思ったのであろう。
 千雄丸は庭に降り、祥のそばに寄った。
「そなた、一体ここで何をしておる。」
 と、千雄丸は訊ねた。
 祥は首を横に振るだけで、顔を上げようとはしなかった。
 千雄丸はひざを抱え込んで、祥の横顔を覗き込んだ。
「泣いておるのか。」
 というと、祥は小さく頷いた。
「そうか・・・。寂しいのだな。」
 千雄丸の問いかけに、祥はまた小さく頷いた。
 千雄丸はすぐに次の問いをせずに、少し間を置いた。
 庭の片隅に月明かりに照らされた二人の影が映っていた。
「今宵は月明かりが強いようじゃな。見てみよ。影が昼間のように映っておるぞ。」
 と、千雄丸は言った。
 祥は顔を覆っていた手をそっと下ろし、地面に映る自分の影を見た。
「まことに・・・。」
 と、祥は言った。
「ほう、やっと話してくれたか。ほれ、見てみよ。山の端までも、くっきりと見えるぞ。」
 千雄丸は、中村の北方にそびえる堂が森のほうを指差した。
 見遣ると、藍で染めたような夜空の下に鉄紺色の山の端がくっきりと浮かんでいた。
「美しい・・・。」
 祥はまるで珍しいものでも見るかのように、夜空をぐるりと見回した。
 その様子を見て、千雄丸は少し安心した。
「ところで、そなたは京から参ったのであったな・・・。戻ろうとしたのか。」
 と、千雄丸は訊ねた。
 祥は、
「はい。」
 と、小さな声で答えた。
「そうか。京に身内の者が居るのじゃな。」
 と、千雄丸が訊ねた。
「いいえ・・・。」
 と、祥は言って、首を横に振った。
「では、どこへ行こうとしておったのじゃ。」
「美濃にございます。」
「美濃じゃと。」
 千雄丸は驚いた。
「はい。わたくしの父が居りまする。」
「しかし、そなたの身では美濃へは行けまい。」
「それでも行きまする。」
 と、祥は強く言った。
 千雄丸は祥に己と重なるものを感じずに入られなかった。
「そうか。そなたはそれほどまで親の元に行きたいのか。」
 というと、祥は黙って頷いた。
「実はな、俺もこの家の者ではない。これよりずっと東の果て、岡豊という所の者じゃ。そうそう、名を教えておらぬであったな。それがしは長宗我部千雄丸という者じゃ。ところでそなたの名は祥殿であったな。一体そなたの身の上に何があったか、よければ聞かせてはくれぬか。」
 と、千雄丸は言った。
 祥はおもむろに頷き、
「わたくしの父は美濃の侍、斎藤大和守にございます。母はわたくしが幼きとき、戦に巻き込まれ亡くなりました。父は守護様に代わって国を預かる者でございましたが、一族とその役目をめぐって争い、各地を点々とする有様でございました。そこで父は縁者を頼り、わたくしを京の中御門様の元に預けたのでございます。」
 と答えた。
「そうであったか・・・。」
 と、千雄丸は言葉に詰まった。
 今まで己を哀れと思ったことはない。だから、哀れというものがどういうものなのか分からない。ただ、一心に家の再興を願ってきたからであろう。
 しかし、同じ境遇の祥を見て、初めて、哀れというものがどういうものなのか分かったような気がした。
「ところで、千雄丸様はなぜここに居られるのです。」
 と、今度は千雄丸が訊ねられた。
「ああ、俺の家もかつて敵に城を奪われ、その戦で父母、姉上までもが亡くなった。俺には身内の者は居らぬ。」
 と、千雄丸は答えた。
「それはまあ・・・。」
 と、祥は言葉を失った。
「いやいや、それほど哀れむでもない。初めは俺も肩身の狭い思いをしたが、御所様のご慈悲で養われ、来年には岡豊に戻れることも決まった。それにいつも俺を支えてくれる正時も居る。ありがたいことに、この中村で俺は武士の心得を余さず学ぶことができた。澄めば都とはこのことかも知れぬ。」
 と、千雄丸は言った。
「まあ、健気なこと。」
 と、祥は言って、笑った。
 千雄丸は、ほっとして立ち上がり、
「今宵は冷えるな。祥殿もそろそろ寝所に戻られよ。宿直の者に見つかっては後々厄介じゃからな。」
 といって、祥を寝所へと戻らせた。
 
 澄み切った夜空は一層その冷たさを増し、空気は凛としていた。
 

天8章 花姫 (その七) [天海山河]

 永正十五年六月、千雄丸は房家を烏帽子親に元服の儀に臨んだ。
 傍らにはいつものように正時が控えている。
 房家は、千雄丸に烏帽子をかぶせると、
「千雄よ。そなたは、管領細川高国殿より一字を頂き、長宗我部弥三郎国親と名乗るがよい。」
 といった。
「ありがたき幸せにござりまする。」
 と、国親は応えた。
 房家は、
「ところで千雄、いや、弥三郎よ。まろからのささやかな祝いではあるが、今、岡豊にそなたの住まう館を拵えておる。八月にはできるであろう。それにこれから、そなたは一城の主となる。そこで何か官途を付けねばならぬが、そなたのお父上が若かりしとき名乗っておった将監はどうじゃ。」
 といった。
 国親は、額を床にこすり付けるかのように頭を下げて、
「畏れながら、長宗我部家において将監はその先代が宮内少輔に在りしとき、その過渡において名乗る官途でござります。今、宮内少輔は天竺殿の官途でござりますれば、将監の官途は不相応にござります。されば、わが家の出自を鑑み、信濃守と致したいと存じまする。」
 と答えた。
「そうか、そうであったな。よしよし。では、信濃守を名乗るがよい。」
「ありがとうございます。」
「ほかに望むものはないか。この房家ができるものがあれば、何でも叶えようぞ。」
 と、房家が言った。
 すると、国親はおもむろに面を上げて、
「では、畏れながら、祥殿をわが妻として娶りたいと思いまする。」
 と、凛とした声で言った。 
「お祥をか・・・。」
 房家は目を丸くした。
 そばに居た正時も国親のほうを見て、あんぐり口を開けている。
「いかがにございましょうか。」
 と、国親は房家に尋ねた。
「そ、それは・・・。」
 国親の思いもよらぬ申し出に、房家はいったん気を落ち着けさせた。
 祥のことは、中御門宣胤から房家に意思決定を委ねられている。
 国親と祥は年頃も悪くない。
 しかし、宣胤や祥の父、斎藤利良の思いもある。まして、祥は利良のたった一人の娘である。それを思えば、何より、祥の身の安泰を計らねばならぬ。
 今、国親が戻ろうとする岡豊は、決して安全なところではない。
 房家はおもむろに口を開いた。
「弥三郎よ。そなたには悪いが、今はお祥をそなたにやるわけにはゆかぬ。このこと分かってくれぬか。」
 といった。
 国親は頷き、
「承知致しました。ご深慮頂き、誠にありがとうございました。」
 と、すがすがしく答えた。
「そうか、そうか。分かってくれるか。ではその代わりに何か他にないか。」
「それでは、黒金をわたくしに下さいませ。」
「おお、黒金か。よいぞ。あの馬はそなたにしか懐かぬ故な。よくぞあれだけの暴れ馬を手なずけたものじゃ。」
 と、房家は黒金を国親にやった。

 八月下旬、秋も深まり、山肌は紅に染め上がり、蒔絵のごとく美しい。
 その日の辰の刻、国親と正時は岡豊へと出立した。
「弥三郎よ、達者で暮らすのじゃぞ。」
 と、房家が声をかけた。
「御所様、誠にありがとうございました。」
 と、国親は頭を下げた。
 正時には土居孫太夫が駆け寄り、手を取って、
「また、互いに離れ離れとなるが、良き便りを待っておるぞ。達者で暮らせ。」
 といった。
 正時は皺びた目じりに涙をいっぱいに溜めて、
「誠に、孫太夫殿にはお世話になった。きっと良き便りを致しましょうぞ。」
 といって、礼をした。

 国親と正時は別れを済ますと、御所の東門から外へ出た。
 土佐七雄の一角でありながら、主従二人のわびしい旅路である。しかし、国親の心に去来するものは、果てしなく広がる未来への希望である。
 ただ一つ心残りは・・・。
 国親は町外れの丘まで進むと、ふと、御所のほうを振り返った。
「どうなされました。若殿様。」
 と、正時が声をかけた。
 国親は振り返り、
「いや、何でもない。少し、懐かしく思ってな・・・。」
「左様でございますなあ。」
 と、正時も頷いた。
 国親は黒金を促した。
 黒金は足で地面を二三度踏み鳴らした。
「これはどうしたことでございましょうな。まずらしく若殿様の言うことを聞きませぬな。」
 と、正時が黒金の顔を覗き込んだ。
 黒金は行くのを嫌がっているかのようである。
 すると、後から声がした。
「弥三郎様。弥三郎様。」
 国親はとっさに振り返った。
 丘の麓には、祥が手にいっぱいの野菊をもって立っていた。
「祥殿。」
 国親は声を上げた。
 祥は丘の坂道を駆け上がると、
「弥三郎様、これを。」
 といって、野菊の束を国親に差し出した。
「ほう、この時季に、これは珍しい。紫のヨメナにございますな。」
 と、正時が言った。
「ええ、渡川の畔に咲いておりましたので摘んで参りました。」
 と、祥は言った。
「これは良き贈り物じゃな。祥殿、そなたのことは忘れぬぞ。」
 と、国親は花束を受け取った。
 祥の着物の袖は朝露に濡れている。
「それではお達者で、・・・。」
 と、祥は言うと、御所のほうへと駆け出していった。
「祥殿・・・。」
 祥の姿は中村の市屋町の中に消えていった。
「それでは参りましょうか。」
 正時は黒金の手綱を引いた。
「そうじゃな。岡豊へ参ろう。」
 国親は黒金の総緒にヨメナの花束を括りつけ、中村を後にした。

  

天9章 如来再誕 (その一) [天海山河]

 十年ぶりの岡豊は、二人にとってどこか懐かしい長閑な田園風景のままだった。
 少し違うのは、岡豊山の頂にあった城はそこにはなく、それに代わって草木が茂り、山の中腹に小さな桧皮葺の館がちょこんと建てられていた。
「あれがわれらが城にございますか。」
 と、正時は唖然とした。
 かつて山の頂にあった本丸のほか、北にあった乾曲輪、西の尾根の厩曲輪、南の中腹にあった腰曲輪と、四つの曲輪を抱えた立派な城であった岡豊城は影も形もない。
「太郎兵衛、よいではないか。雨露をしのぐのにはあれで十分じゃ。一条様のおかげでここまで来れたのじゃ。文句は言ってはならぬ。すべてはここから始まるのじゃ。」
 と、国親は正時をなだめた。
「左様でございますな。若殿様はお心が強い。太郎兵衛も心してご奉公いたしましょう。」
 と、正時は気を取り直した。
 館に入ると、まだ木の香りがする。
 芳ばしく、どこか青臭い独特の香りは若主老臣の二人住まいにはぴったりであった。
「それにしても城というより、地侍の屋敷といった具合でありますな。」
 正時は館の中をあれこれと見回った。
「太郎兵衛、当分、俺とそなたとの二人暮らしだぞ。これで十分というものじゃ。」
 と、国親は床に寝転がった。 
「されど若殿様、飯、風呂の用意はいかがなさいます。明日には村の者から手伝いの者を雇いましょう。」
 と、正時は言った。
「そうだな。そう致そう。それと祖先の墓参りもしておきたい。太郎兵衛、墓の場所は覚えておるか。」
 と、国親が訊ねた。
「はい、覚えておりますとも。ご霊廟にお家再興のご報告を致しましょう。」
 と、正時は答えた。

 あくる日、国親は正時とともに、先祖の墓所へ向かった。
 墓所は、城山の東の麓にあった。かつてそこには常通寺という寺があったが、あの戦の折に焼失してしまったのである。
「さぞかし荒れていることだろう。」
 と、国親はつぶやいた。
「左様でございましょうな。」
 と、正時も同調した。
 東の麓に着くと、案の定、寺のあった辺りは一面笹竹に覆われていた。
 しかし、そこに一本の小さな道が奥へと続いている。
「はて、誰かが筍でもとりに入ったのでございましょうか。」
 と、正時は首をかしげた。
「墓所はこの先か。」
「はい、この先にございます。」
 と、正時が先導して、その小道を進んでいった。
 すると、道の奥にぽかりと広い空間が現われた。
 そこにいくつもの五輪の塔が並んでいる。
「若殿様、これは一体・・・。」
 と、正時が言った。
 よく見れば、塔の一つ一つに小さな花が生けられ、丁寧に祀られている。
「誰かが守ってくれておるようじゃな。」
「しかし、あの折、ご当家の縁者は皆、四散いたはず。一体誰が祀りを絶やすことなく続けたというのでございましょうか・・・。」
 と、二人はしばらくの間、この不思議な光景に目を奪われていた。
「とにかく、わが先祖に帰還のご報告を致そう。」
 国親は、一つ一つの墓前に跪き、帰還の報告と家名繁栄を祈願した。
 当主が眠る墓は全部で十七基。代々の当主の中でここに墓がないのは、追放された第十七代の元門と、父の元秀だけであった。
 国親は、ここに父母が眠っておらぬことが残念でならなかった。
 そう思うと、ふと、目に父母との別れの際が浮かんできた。
 国親は、数珠を握り締め、
―あの時、俺は父に誓こうた。母に誓こうた。家の再興、武士の志。郷土を離れ彼の地にあっても、一時もそのこと、忘れたことはない。家の再興叶えど、未だ父母の霊魂を静めること能わず。一条様は仇する事勿れと申されたが、父母との約定を違えるわけにはゆかぬ。いずれ仇敵を討ち、墓前にご報告仕らん。―
 と、念じた。
 そのときである。
 小道のほうから、「ガサッ」と、音がした。

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