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天23章 漁夫の利(その二) [天海山河]

家忠と勧修寺基詮は時折様子を見て、津島表へ出張った。
南方に一条氏きっての名将がいることは、西園寺衆にとっても脅威であった。
西園寺実充は板島丸串城に一門の西園寺宣久を入れ、一条勢の動きを警戒した。
実はこの少し前、弘治二年に実充は累代の居城、松葉城から南にあるより堅固な要害の黒瀬城に移っている。一条、大友方に抗するためであっただろう。
この戦の最中、一条兼定と宇都宮豊綱の娘との祝言が執り行われた。
一条勢は西園寺実充を三方からぐるりと取り囲み、この年の暮れ、ついに西の海から臼杵越中守鑑速(あきすみ)が率いる大友の大軍が攻め寄せてきたのである。
この事態に土居宗雲は一族を率いて、大森城から海沿いにある難攻不落の要害、石城へ移った。
斯くして、康政の狙いは河後森城の一点に絞られ、城主渡辺政忠は降伏し、一条氏の連枝東小路家より式部少輔教忠を養子に迎えることで和議を結んだ。
まさに康政の策は功を奏したかのように見えたが、石城に拠る土居一族は宗雲の奮闘により何と三年も持ちこたえたのである。
何よりも岩壁に囲まれたこの城はまさにその名に相応しく、石の楯となって、一条、大友の大軍を跳ね返した。
「名将とはまた名城を持つものか。」
鑑速は宗雲の戦いぶりに感服した。
和議を持ち掛けても応じるような男ではないと踏んだ鑑速は、石工衆を呼んだ。
豊後には古来より断崖に石仏を彫るなど、良い石工衆が居る。
「あの岩を削れるか。」
と、鑑速は訊ねた。
石工の棟梁は、
「なかなか難儀な岩のようでござりまするが、我らに彫れぬ石はござりませぬ。四国の岩にこの鐫(のみ)を当てられるは誉れにござる。」
と、腕をやくした。
「頼もしき言葉かな。」
「それではさっそく。」
と、石工の棟梁は鑑速の前を辞した。
石工衆は硬い岩を削り、一月ほどで城の井戸水を抜いた。
水抜攻めを食らった宗雲はついに覚悟を決め、一族を集めると、
「ここで敵の軍門に下り、後世に主君を欺いたと名を汚すより、死を定めて最後の戦をせん。然れば、わが一族の命脈を孫、虎松に託せん。皆々、同心してくれぬか。」
と、言った。
一族郎党一人も異議なく、虎松は母とともに僧に連れられ城を出ると、大友の陣に降を願い出た。
それを鑑速は快く受け入れ、
「宗雲殿はまこと誉れ高き武将よ。もし伊予に大星、太地があらば、万軍を率いる将であったろうに、四国なる狭土にあったばかりに如何ともし難い。これ天運のなすところなりや。」
と、宗雲を哀れんだ。
しばらくして、石城の大門が開かれると、宗雲を先頭に、土居一族がおめきを上げて打ち出してきた。
宗雲は長刀を振るい敵陣に数度討ち入ると、残兵をまとめて城に入り、嫡子清実とともに自害した。
永禄四(1561)年のことであった。
ここに至って、西園寺実充も降伏し、大友氏の監視下に置かれることとなった。
虎松は鑑速の計らいで土佐中村に送られ、歳の近い渡辺教忠とともに成長した。それが後の土居清良である。

さて、少し時は遡り、一条と本山が西の戦に忙しい最中、
「我らもそろそろ動きますかな。」
と、吉田周孝が言った。
「気付けば我らも歳を取ったのう。」
と、覚世は応えた。
「いかにも、みな我らより若うございますな。」
「式部少輔(本山茂辰)に、小松谷寺(康政)。」
「大友殿もまだ二十七、八と。我らより歳ゆくは安芸の大江(毛利元就)殿だけとのこと。」
と、周孝が言った。
「おいおい、叔父貴殿、大江はわしよりも上であるが、そなたよりは若いと聞くぞ。鯖を読んではならぬ。」
「はて、そうでこざいましたかな。これは失礼。ははは。」
「何を笑うておる。」
「いやいや、可笑しゅうて。」
「何が可笑しい。」
「分かりませぬ。」
「そうか、分からぬか。それは可笑しきかな。はははは。」
覚世も周孝も笑いのつぼが似か拠るのも、それが長き年月を共に経てきたことを指し示していた。
長宗我部氏はまさに覚世と周孝の二人三脚で歩んで来たのである。








天23章 漁夫の利(その一) [天海山河]

時に、雨後森城を守るのは渡辺左近将監有高(ありたか、または、なおたか)、またの名を政忠という男であった。
政忠は三間盆地の深田城主、竹林院公義(きみよし)や大森城主、土居宗雲ら西園寺衆と密に連絡を取り、一条勢に付け入る隙を与えなかった。
殊に、土居宗雲は三間郷二十三ヵ村を有し、天文十五(1546)年に起きた大友の伊予打ち入りの際、法華津の湊から夜中に舟を漕ぎ出し、日振島に停泊する九千二百騎の大友軍を撃ち破った勇将である。
案の定、地の利に勝る宗雲は時折城を出て、一条勢の背後を撹乱し、その神出鬼没振りは、鬼北の天狗と恐れられた。
宗雲に手を焼く康政は、ここに至って堪忍袋の緒が切れた。
「大友殿はいったい何をしておられるか。早う出兵下さるよう催促せよ。」
と、家来を怒鳴り散らした。
家来が周章てふためき飛び出していくと、その光景を見かねた土居家忠が、
「穏便ではござらぬな。」
と、康政に声をかけた。
康政はぶすりとして、
「この頃、蝿まで気になり出したわい。」
と、愚痴った。
「まあそう気を急かされるな。そなたらしくもない。大友殿は 御舎弟殿を亡くされて喪に伏しておることは承知であろう。」
と、家忠は宥めた。

ここで一つ、補足しておかねばならぬ。
この大友殿とは大友義鎮(よししげ)、後の宗麟のことで、舎弟殿とは大内義長のことを指す。
はて、と思われる方もいると思うが、無理もない。
豊後の大友と周防の大内は九州北部を巡って犬猿の仲であることは先に述べたと思うが、実はそうでもなかった時がある。
それは大友義鎮と大内義長の母は大内義隆の姉なのである。
少々ややこしいが、大内義隆には子供がいなかった。はじめは土佐一条氏から晴持を養子にもらい受けたが、天文十一(1542)年の尼子攻めの折に失ってしまった。
そこで白羽の矢が立ったのが、甥である義長であった。このとき、まだ十歳ほどで塩乙丸(しおおとまる)と言った。塩乙丸は周防山口に移り、義隆の元で元服し、初めは大内周防守晴英と名乗った。
ところが、天文十四(1545)年に義隆に義尊という子ができたのである。
微妙な立場となった晴英は豊後に帰り、怒った父の大友義鑑(よしあき)は翌年に大内方の伊予に攻め入ったのである。
それが土居宗雲の活躍に至るのである。
さてその後、大内義隆は天文二十(1551)年の陶晴賢の反乱で義尊とともに命を落とし、その晴賢がこのとき大友氏の当主となっていた義鎮に、晴英の帰還を申し出たのである。
晴英は山口に戻り、義長と名を改めて大内氏の家督を継いだが、晴賢の傀儡にすぎなかった。
弘治元(1555)年、晴賢が厳島の戦いで毛利元就に敗れ、命を落とした。
後ろ楯を失った義長は、弘治三(1558)年春、毛利氏が周防に雪崩れ込むと、家臣に見限られ、逃走の末に長門国の長福院で自刃した。享年二十六歳であった。

「ああ分かっておるとも。されどもう秋じゃ。戦の最中、喪には十分過ぎるほどじゃ。」
康政はぱちりぱちりと扇子を打ち鳴らした。
「落ち着かれよ。この先は沼や牟田じゃ。敵はそこに誘うておる。焦って手を出せば、それこそ向こうの思うつぼ。近々行われる若君の婚儀に水を指すぞ。大友殿が十分に兵を調えて来るまでの辛抱じゃ。」
と、家忠は言った。
「もう十年以上も前に、あの天狗には煮え湯を飲まされたからのう。」
「貴殿は知恵が回る故、思い通りことが運ばねば、いきり立つのも分からぬでもないが、戦場にて大将が苛立ちを顔に出しては家来の士気に障る。どうにもならぬときこそ平素を保つが肝要ぞ。」
と、家忠は諭すと、さすがに康政も我に返ったか、小さく頷いた。
「小競り合いに城囲み、我らがこの吉野口(※)に陣を張って幾余年。伊予に討ち入るには容易き道なれど、これより進むに難き鬼門の道か。天狗につつかれ、隘路に阻まれ、行けど戻れの繰り返しか。ならばここは我慢比べと行くか。あちらがつつくのならば、こちらもつつこう。土居殿、内海口を守る御庄殿とともに津島(※)、板島(※)表へ出向いて、敵の背後を撹乱してくれぬか。」
と、言った。
御庄殿とは、勧修寺左馬頭基詮(もとのぶ)という男で、一条氏が土佐へ下向した折についてきた一族である。
御庄郷は一条氏にとって唯一の伊予側の領土であり、津島とのあいだ十数里には険しい山が海まで迫り、伊予にありながら他のそれとは隔絶した独自の様を成していた。
「叩かず、つつくのはよい策かもしれぬな。我らは東より、北の宇都宮と南の御庄、最後に西より大友殿が加われば、さすがの西園寺衆も抗うことはできまい。」
と、家忠は賛同した。
「そうとも、今は天狗め、我らを撹乱して悦に入っておるであろうが、今度は我らがその鼻っ端をへし折る番じゃ。」
康政は土居宗雲のあわてふためく顔を思い浮かべて、ほくそ笑んだ。
その様子を見た家忠は、 また康政の悪い癖が出たなと思った。



※吉野口:四万十川の支流広見川を通って、土佐と伊予を結ぶ伊予側の集落。河後森の隣村である。
※津島:宇和島の南にある集落。
※板島:現在の宇和島市。藤堂高虎が入封するまではこう呼ばれていた。




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