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27章 国司下向(その六) [天海山河]

その頃、本山氏の居城、朝倉では、
「殿、好機にござりますぞ。どうやら御所の方にて、騒動がござった様子。蓮池を乗っ取るは、今にござる。」
と、家老の鵜来巣弾正が進言した。
茂辰はつい、吉井修理へ視線を向けた。
修理は苦虫を噛むのを堪え、小さく頷いた。
「よし、弾正、兵を調えてすぐに出立じゃ。」
と、茂辰は返答した。
「承知。」
と、弾正が一声して、飛び出して行くと、修理はその姿が見えなくなったのを見計らい、
「殿、恐れながら、斯様な儀にては、某を見てはなりませぬ。」
と、茂辰に注文をつけた。
「すまぬ。つい、そなたの意見を伺っておこうと思うてな。」
「なりませぬ。」
「ならぬか。」
「なりませぬ。殿のお心の弱さが家臣に映りまする。また、家来は殿がわがことばを信じぬと思いまする。ましてや鵜来巣殿は譜代の臣にござりまする。」
と、修理は言った。
無論、修理は、茂辰が狼狽えるのも無理はないと思った。
すでに、一条方の森山、秋山を手に入れているとはいえ、一条氏は土佐の半分を領する大身である。そのうえ、蓮池は土佐一の大河、仁淀川の向こうにあり、謂わば一条氏の懐から金子をかっ浚おうというのと同じである。
ー亡き梅慶様とて成せぬこと、遺業を継いだとはいえ、武者震いするのも無理はない。ー

それから間もなく、茂辰は六百騎をもって、仁淀川を押し渡り、蓮池の城へ攻め寄せた。
城は辺り一面深田や沼に覆われ、そのなかにぽつんと突き出た丘の上にある。
鵜来巣弾正はこの城を見て、
「この類いの城は厄介至極じゃ。」
と、感嘆した。
すると後ろから、
「左様でござるな。近寄れば足を取られ、上から矢攻めにされ、まさに手も足も出せぬ堅城といったところでござるな。」
と、修理が言った。
「修理殿、感心されては困る。」
と、弾正は憤慨した。
「いやいや、悪かった。して、鵜来巣殿、何か妙案でもござらぬか。」
と、修理は訊ねた。
弾正は、
「某は、あれにある家屋を取り壊し、城へ渡る橋にいたすが良いと存ずる。」
と、城の東にある高岡の集落を指差した。
「成る程、一計にござるな。」
と、修理は頷いた。
その様子に、弾正は少々苛立たしかった。
「では、修理殿は如何か。」
「某か。某には貴殿ほどのものはござらぬ。」
「ござらぬつか。」
弾正は拍子抜けした。
「されど、殿が仰せに、あの家屋を焼き払い、閧の声を上げ、しばらくして兵を引けとのことじゃ。」
と、修理は言った。
「閧の声を上げて、攻めぬとは、殿は如何なるお考えか。」
と、弾正は小首をかしげた。
「某も分からぬ。が、何か意とするところがあってのことじゃろう。」
と、修理は言った。
だが、実は、この策こそ、修理の献策であった。
修理はこのとき、茂辰に華を持たさねばならぬと考えていたのである。
ー一条とて、一朝一夕に落とせた城ではない。殿が此度の戦にて落としたとあれば、武名を土佐中に轟かし、家中の士気も上がるに違いない。ー

修理と弾正は兵を従え、高岡村に火を放ち、大音声を上げた。
城方は慌てて矢倉、塀の矢狭間に身を寄せて、無用の矢を射かけたが、攻めて来ぬと分かると、寄せ手の様子を窺った。
本山勢はこれを三日三晩繰り返したのである。
どれが本当の閧の声か分からぬ城方は戦々恐々の面持ちで、寝るに寝付けず、気の滅入る者まで出てきてしまった。
すると、次の朝、城下を見れば、寄せ手は一人もいない。
「さては我らが安心して、城から出たところを襲おうというのではないか。」
と、城方は四方に張った矢倉から山の端々を見遣った。
しかし、敵の気配はない。一日経っても、敵が舞い戻ってくる様子もない。
「さては弘岡に帰ったか。」
と、城方の兵どもは胸を撫で下ろした。
そして城兵どもは、一人、また一人と、まどろみに落ちていった。



27章 国司下向(その七) [天海山河]

夕闇が辺りを覆った頃、草枕から起き上がった者がいた。
吉井修理である。
「そろそろじゃ、皆を起こし、飯を食わせろ。」
と、修理は家来に命じた。
いったい、本山勢はどこにいたのか。
それは城方が思った通り、山の端の裏に潜んでいた。
しかし本山勢がいると悟られなかった理由は、昼寝をしていたからである。
修理が握り飯を食んでいると、鵜来巣弾正がやって来た。
弾正はすこぶる機嫌が良かった。
「やれやれ、これほど痛快なことはない。」
と、弾正は頬を綻ばせながら、握り飯を口に放り込んだ。
「如何された弾正殿。」
「いやな、不思議でならぬ、不思議でならぬと思うてな。あれやこれやと無い知恵を巡らして考えたところ、ふと合点がいった。それは、この策があまりにも用意周到で、一つの落ち度、いや、あえて言うならば、石垣の隙に毛一本入らぬほどの緻密さと言うべきかな。つまり、この策は貴殿が考えたものと考えればすべてに合点が行く。」
と、弾正は手についた米粒を食み取った。
「弾正殿は誤魔化せぬか。」
「虚仮にいたすな。されど三日は貴殿に謀れたぞ。しかし残り火で飯を炊きはじめた頃には、ふとおかしいとは思うたが。それも先を見通してのことであろう。」
と、弾正は訊ねた。
すると、修理は、
「貴殿の申す通りじゃ。」
と、観念した。
「参ったものじゃ。そのうえ、敵中にて昼寝とは、そこまで知恵がまわるのならば、そなたの策じゃと申せば良いものを。わしまで謀りよって。」
と、弾正は愚痴った。
「悪かった。されど、策とはすべてが見通されては策ではなくなる。人とは不幸なものよ。謀る者が最も下手な芝居をしてしまうものじゃ。現にわしは腹のなかでほくそ笑み、声を張り上げることができなかった。もし貴殿がすべてを知っておれば、尚更、兵の皆が貴殿に合わせ、声を張り上げることがなかったであろう。」
と、修理は応えた。
「やれやれ、よくも言うたわ、敵を欺くならば、先ずは味方からとな。まっこと飯といい、昼寝といい、大胆不敵か、ふてぶてしいか。よくもまあ、昼寝をしても敵が城を出ぬ踏んだものよ。」
「三日三晩、音声を上げて城を囲めば、敵は身を強張らせて、籠り癖がつく。まして、急に兵を引けば、これも策ではないかと疑心暗鬼が生ずるもの。ゆえに、遠見して敵の行方を探し、無論見当たらねば、山蔭から煙が上がっていないかと探すであろう。」
「成る程、唐国の古に漢の将軍が匈奴を攻めた折、敗軍して撤退の最中、無数の飯炉をこしらえて敵の追っ手を防いだときく。飯の煮炊きとは戦場においてまっこと恐ろしきかな。」
「しかるに、何も見えねば、心も萎えて、敵は帰ったものと楽観したいものじゃ。」
「詰まるところ、そろそろ攻め時ということじゃな。」
と、弾正が言った。
「左様。」
と、修理は応えた。
「よし、かがり火を焚け、太鼓を鳴らせ、閧の声を上げよ。」
と、弾正は声を張り上げた。
「弾正殿、くれぐれも此度のことはいっさいがっさい貴殿と某の心のなかに仕舞い込んでくれ。」
「承知承知。」
と、弾正は応えると、馬に飛び乗り駆け出していった。

蓮池城の中では、本山勢が夜襲に現れたと知り、城兵どもが寝ぼけ眼でこれを迎え撃とうとしたが、一度落ちた士気は容易に戻るものではない。腰が砕け、手も足もおぼつかぬ有り様である。
「心萎えては闘えぬ。」
と、はるか向こうから攻め寄せる無数の炎を前にして、城を抜け出し、蓮池城はろくな戦もなく、本山勢の手に落ちた。

この知らせは河後森城を攻める源康政の耳にも届いたが、兵を出すことも間々ならず、歯軋りして、本山茂辰を恨んだ。


28章 漁夫の利(その一) [天海山河]

時に、雨後森城を守るのは渡辺左近将監有高(ありたか、または、なおたか)、またの名を政忠という男であった。
政忠は三間盆地の深田城主、竹林院公義(きみよし)や大森城主、土居宗雲ら西園寺衆と密に連絡を取り、一条勢に付け入る隙を与えなかった。
殊に、土居宗雲は三間郷二十三ヵ村を有し、天文十五(1546)年に起きた大友の伊予打ち入りの際、法華津の湊から夜中に舟を漕ぎ出し、日振島に停泊する九千二百騎の大友軍を撃ち破った勇将である。
案の定、地の利に勝る宗雲は時折城を出て、一条勢の背後を撹乱し、その神出鬼没振りは、鬼北の天狗と恐れられた。
宗雲に手を焼く康政は、ここに至って堪忍袋の緒が切れた。
「大友殿はいったい何をしておられるか。早う出兵下さるよう催促せよ。」
と、家来を怒鳴り散らした。
家来が周章てふためき飛び出していくと、その光景を見かねた土居家忠が、
「穏便ではござらぬな。」
と、康政に声をかけた。
康政はぶすりとして、
「この頃、蝿まで気になり出したわい。」
と、愚痴った。
「まあそう気を急かされるな。そなたらしくもない。大友殿は 御舎弟殿を亡くされて喪に伏しておることは承知であろう。」
と、家忠は宥めた。

ここで一つ、補足しておかねばならぬ。
この大友殿とは大友義鎮(よししげ)、後の宗麟のことで、舎弟殿とは大内義長のことを指す。
はて、と思われる方もいると思うが、無理もない。
豊後の大友と周防の大内は九州北部を巡って犬猿の仲であることは先に述べたと思うが、実はそうでもなかった時がある。
それは大友義鎮と大内義長の母は大内義隆の姉なのである。
少々ややこしいが、大内義隆には子供がいなかった。はじめは土佐一条氏から晴持を養子にもらい受けたが、天文十一(1542)年の尼子攻めの折に失ってしまった。
そこで白羽の矢が立ったのが、甥である義長であった。このとき、まだ十歳ほどで塩乙丸(しおおとまる)と言った。塩乙丸は周防山口に移り、義隆の元で元服し、初めは大内周防守晴英と名乗った。
ところが、天文十四(1545)年に義隆に義尊という子ができたのである。
微妙な立場となった晴英は豊後に帰り、怒った父の大友義鑑(よしあき)は翌年に大内方の伊予に攻め入ったのである。
それが土居宗雲の活躍に至るのである。
さてその後、大内義隆は天文二十(1551)年の陶晴賢の反乱で義尊とともに命を落とし、その晴賢がこのとき大友氏の当主となっていた義鎮に、晴英の帰還を申し出たのである。
晴英は山口に戻り、義長と名を改めて大内氏の家督を継いだが、晴賢の傀儡にすぎなかった。
弘治元(1555)年、晴賢が厳島の戦いで毛利元就に敗れ、命を落とした。
後ろ楯を失った義長は、弘治三(1558)年春、毛利氏が周防に雪崩れ込むと、家臣に見限られ、逃走の末に長門国の長福院で自刃した。享年二十六歳であった。

「ああ分かっておるとも。されどもう秋じゃ。戦の最中、喪には十分過ぎるほどじゃ。」
康政はぱちりぱちりと扇子を打ち鳴らした。
「落ち着かれよ。この先は沼や牟田じゃ。敵はそこに誘うておる。焦って手を出せば、それこそ向こうの思うつぼ。近々行われる若君の婚儀に水を指すぞ。大友殿が十分に兵を調えて来るまでの辛抱じゃ。」
と、家忠は言った。
「もう十年以上も前に、あの天狗には煮え湯を飲まされたからのう。」
「貴殿は知恵が回る故、思い通りことが運ばねば、いきり立つのも分からぬでもないが、戦場にて大将が苛立ちを顔に出しては家来の士気に障る。どうにもならぬときこそ平素を保つが肝要ぞ。」
と、家忠は諭すと、さすがに康政も我に返ったか、小さく頷いた。
「小競り合いに城囲み、我らがこの吉野口(※)に陣を張って幾余年。伊予に討ち入るには容易き道なれど、これより進むに難き鬼門の道か。天狗につつかれ、隘路に阻まれ、行けど戻れの繰り返しか。ならばここは我慢比べと行くか。あちらがつつくのならば、こちらもつつこう。土居殿、内海口を守る御庄殿とともに津島(※)、板島(※)表へ出向いて、敵の背後を撹乱してくれぬか。」
と、言った。
御庄殿とは、勧修寺左馬頭基詮(もとのぶ)という男で、一条氏が土佐へ下向した折についてきた一族である。
御庄郷は一条氏にとって唯一の伊予側の領土であり、津島とのあいだ十数里には険しい山が海まで迫り、伊予にありながら他のそれとは隔絶した独自の様を成していた。
「叩かず、つつくのはよい策かもしれぬな。我らは東より、北の宇都宮と南の御庄、最後に西より大友殿が加われば、さすがの西園寺衆も抗うことはできまい。」
と、家忠は賛同した。
「そうとも、今は天狗め、我らを撹乱して悦に入っておるであろうが、今度は我らがその鼻っ端をへし折る番じゃ。」
康政は土居宗雲のあわてふためく顔を思い浮かべて、ほくそ笑んだ。
その様子を見た家忠は、 また康政の悪い癖が出たなと思った。



※吉野口:四万十川の支流広見川を通って、土佐と伊予を結ぶ伊予側の集落。河後森の隣村である。
※津島:宇和島の南にある集落。
※板島:現在の宇和島市。藤堂高虎が入封するまではこう呼ばれていた。




28章 漁夫の利(その二) [天海山河]

家忠と勧修寺基詮は時折様子を見て、津島表へ出張った。
南方に一条氏きっての名将がいることは、西園寺衆にとっても脅威であった。
西園寺実充は板島丸串城に一門の西園寺宣久を入れ、一条勢の動きを警戒した。
実はこの少し前、弘治二年に実充は累代の居城、松葉城から南にあるより堅固な要害の黒瀬城に移っている。一条、大友方に抗するためであっただろう。
この戦の最中、一条兼定と宇都宮豊綱の娘との祝言が執り行われた。
一条勢は西園寺実充を三方からぐるりと取り囲み、この年の暮れ、ついに西の海から臼杵越中守鑑速(あきすみ)が率いる大友の大軍が攻め寄せてきたのである。
この事態に土居宗雲は一族を率いて、大森城から海沿いにある難攻不落の要害、石城へ移った。
斯くして、康政の狙いは河後森城の一点に絞られ、城主渡辺政忠は降伏し、一条氏の連枝東小路家より式部少輔教忠を養子に迎えることで和議を結んだ。
まさに康政の策は功を奏したかのように見えたが、石城に拠る土居一族は宗雲の奮闘により何と三年も持ちこたえたのである。
何よりも岩壁に囲まれたこの城はまさにその名に相応しく、石の楯となって、一条、大友の大軍を跳ね返した。
「名将とはまた名城を持つものか。」
鑑速は宗雲の戦いぶりに感服した。
和議を持ち掛けても応じるような男ではないと踏んだ鑑速は、石工衆を呼んだ。
豊後には古来より断崖に石仏を彫るなど、良い石工衆が居る。
「あの岩を削れるか。」
と、鑑速は訊ねた。
石工の棟梁は、
「なかなか難儀な岩のようでござりまするが、我らに彫れぬ石はござりませぬ。四国の岩にこの鐫(のみ)を当てられるは誉れにござる。」
と、腕をやくした。
「頼もしき言葉かな。」
「それではさっそく。」
と、石工の棟梁は鑑速の前を辞した。
石工衆は硬い岩を削り、一月ほどで城の井戸水を抜いた。
水抜攻めを食らった宗雲はついに覚悟を決め、一族を集めると、
「ここで敵の軍門に下り、後世に主君を欺いたと名を汚すより、死を定めて最後の戦をせん。然れば、わが一族の命脈を孫、虎松に託せん。皆々、同心してくれぬか。」
と、言った。
一族郎党一人も異議なく、虎松は母とともに僧に連れられ城を出ると、大友の陣に降を願い出た。
それを鑑速は快く受け入れ、
「宗雲殿はまこと誉れ高き武将よ。もし伊予に大星、太地があらば、万軍を率いる将であったろうに、四国なる狭土にあったばかりに如何ともし難い。これ天運のなすところなりや。」
と、宗雲を哀れんだ。
しばらくして、石城の大門が開かれると、宗雲を先頭に、土居一族がおめきを上げて打ち出してきた。
宗雲は長刀を振るい敵陣に数度討ち入ると、残兵をまとめて城に入り、嫡子清実とともに自害した。
永禄四(1561)年のことであった。
ここに至って、西園寺実充も降伏し、大友氏の監視下に置かれることとなった。
虎松は鑑速の計らいで土佐中村に送られ、歳の近い渡辺教忠とともに成長した。それが後の土居清良である。

さて、少し時は遡り、一条と本山が西の戦に忙しい最中、
「我らもそろそろ動きますかな。」
と、吉田周孝が言った。
「気付けば我らも歳を取ったのう。」
と、覚世は応えた。
「いかにも、みな我らより若うございますな。」
「式部少輔(本山茂辰)に、小松谷寺(康政)。」
「大友殿もまだ二十七、八と。我らより歳ゆくは安芸の大江(毛利元就)殿だけとのこと。」
と、周孝が言った。
「おいおい、叔父貴殿、大江はわしよりも上であるが、そなたよりは若いと聞くぞ。鯖を読んではならぬ。」
「はて、そうでこざいましたかな。これは失礼。ははは。」
「何を笑うておる。」
「いやいや、可笑しゅうて。」
「何が可笑しい。」
「分かりませぬ。」
「そうか、分からぬか。それは可笑しきかな。はははは。」
覚世も周孝も笑いのつぼが似か拠るのも、それが長き年月を共に経てきたことを指し示していた。
長宗我部氏はまさに覚世と周孝の二人三脚で歩んで来たのである。








南予勢力図 [山河の小窓]

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伊予国では湯築城の守護河野氏を初め、東予に石川氏、西予に宇都宮氏、南予に西園寺氏が割拠した。
その中でも、西園寺氏は公家大名として、朝廷より官位を与えられるほどの名門であった。
勢力範囲は宇和郡のうち、南宇和を除く地域を支配したが、その力は守護の河野氏を凌ぐほどのものであったと考えられる。
後に入封する藤堂高虎は7万石を有し、江戸時代に入封した伊達秀宗は宇和郡全域の10万石を誇った。
西園寺氏もおおよそ7万石を有したと思われ、その肥沃さは土佐一条氏の幡多、高岡二郡に匹敵する。

山がちでありながら、これほどの石高を産み出せたのは、偏に肱川、四万十川の支流広見川といった大河が複雑に交差し、宇和盆地、野村台地、魚成地区、三間盆地などの穀倉地帯を形成したことにあるかもしれない。
水に恵まれたこの辺りは今日でも愛媛県最大の農業地帯であり、複雑な海岸線による豊かな海産資源、また、緩やかで奥行きのある丘陵地帯では酪農、林業が盛んである。
古来より愛媛経済を下支えしてきた底力を感じさせる地域である。