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天22章 国司下向(その一) [天海山河]

ところで、もう一つ土佐に起こった血の粛清を語らねばなるまい。

この頃一条氏は主不在の状態であった。
一条房基が亡くなったあと、幼少の万千代丸は大叔父一条房通の養継子となって京に上っていたからである。
房通には兼冬、内基という息子がいた。
ところが、兼冬は曾祖父兼良に似てすこぶる英才であったが、身体はそれに似ず生来病弱であった。二十五の歳にして関白に就いたものの、その後間もない天文二十三(1554)年に亡くなった。
また内基(ただもと)はというと、兼冬が亡くなった時まだ七つの歳であった。
つまり、一条家には次代を担うものが、幼い内基とこの万千代丸しか居なくなってしまったのである。
内基が無事に成人するという保証はなく、この時点で、万千代丸も京一条氏の世継ぎ候補だったのである。
行く末を案じた房通は十歳の万千代丸を元服させ、兼冬から一字を取って兼定と名乗らせた。
そして、兼冬が亡くなった二年後、それを追うかのように房通も亡くなった。弘治二(1556)年のことである。
土佐のような遠国に生まれ、関白、氏長者、そして准三后と位人身を極めた人物は房通をおいて他にない。稀代の中の稀代である。
さて、兼定はというと、天文二十年に正五位下に叙されると、とんとん拍子に位を駆け上がり、従三位左近衛少将と禁裏において一条家の顔となっていた。
また、その偉丈夫ぶりは目を見張るものがあり、身の丈六尺、力も強く、度々家人を相手に相撲をとったり、弓の稽古をしたりと、まるで武士のような振る舞いをしていた。
無論、この様子に眉をひそめる者もいた。
「あれは公達ではない、武士の子よ。」
と、噂した。
一方、内基はというと、房通の懸念に反して無事に成長し、十歳になっていた。
「若君様は来年正五位下に直叙されるそうじゃ。」
「これで亡き房通公もさぞや黄泉でお喜びであろう。」
と、家人どもは囁きあった。
兎も角、一条家の家人どもは、腕白な兼定の気質に馴染めないのである。
しかし、当の兼定と内基の仲はたいそう良好であった。
「内基、それでは夜党が襲ってくれば命がないぞ。」
兼定は二尺の擂り粉木棒を内基に投げ渡した。
内基はそれを拾うと、
「兼定兄、お願い申す。」
と、一声した。
「よし来い。」
兼定はひしゃくでこれを受けた。
「えい。」
「ほほう、今度はいいな。されどまだまだ。」
兼定は手首を返して、擂り粉木棒をいなすと、内基の小手をぽんと叩いた。
「あ痛た。」
内基は悲鳴をあげて、擂り粉木棒を落とした。
「これ、棒を落としてはならぬ。敵に手を打たれたとて命をとられたわけではない。傷を負ったとてすぐに身構えねば殺されてしまうぞ。」
と、兼定は叱咤した。
すると、その声を聞き付けた内基の乳母が駆け付けて、
「これ兼定殿、幼い内基殿に何ということを。」
と、兼定を叱りつけた。
兼定はこの乳母がどうも苦手であった。
「これは申し訳ない。」
兼定は頭を垂れた。
「そもそも、…。」
乳母がそう言いかけると、
「お待ちくだされ、これはまろが…。」
と、内基が言うや否や、乳母はこれを制して、
「内基様はおっしゃらずともようございます。そもそも兼定殿の母御は武人の血を引いておられるのに対し、内基様のお母上は公卿の出、貴殿とは身も心も違います。それをまあ、このような武士の遊びごとのお相手をさせるとは、末おそろしや。さあ。」
と、家人どもに命じて、内基を兼定から浚うかのようにして連れ去ってしまった。
そして乳母は、ふんと鼻で笑うとその場を立ち去った。
兼定はじっと黙ってやり過ごし、乳母の陰が消えるのを確かめると、ひしゃくを地面に叩き付けた。


天22章 国司下向(その二) [天海山河]

そんな折、土佐一条氏では一つの事件が起きていた。

弘治三年、執政の源康政と筆頭家老の土居家忠は、西園寺氏を攻めるため伊予に出兵していた。
この西園寺氏もまた公家大名の一つで、一条氏と同じ藤原北家の流れを汲む名門である。
鎌倉時代より伊予宇和地方を領し、そもそも一条氏も西園寺氏も争う理由はないのだが、この頃、周りの大名の縺れ合いから同門同士がいくさ場で相対せねばならなくなったのである。
そのわけとは、大内氏に代わって中国地方の覇者となった毛利氏と、豊後の守護大名である大友氏が、豊前、筑前をめぐって干戈を交え、互の背後を窺おうとしたからである。
毛利氏は伊予の守護大名河野氏と手を結び、大友氏は一条氏との婚姻のほか、伊予喜多郡大洲の宇都宮氏と手を結んでいた。
そして、西園寺氏は河野氏と誼を通じたため、真っ先に大友方の標的となったのである。
この代理戦争とも裏庭合戦とも言われる伊予騒乱は、以後二十年にも及ぶ長いものになる。
余談ではあるが、この騒乱が後に及ぼした影響は小さからず、江戸時代を通して伊予を一国支配した大名は無く、松山の松平、宇和島の伊達、大洲の加藤、小松の一柳など伊予八藩と呼ばれる分割支配に繋がったといっても過言ではない。

さて、康政と家忠は渡川の支流広見川を遡り、伊予鬼北の河後森城を攻めていた。
この城は独立した馬蹄形の丘陵の上にあり、正面を広見川、三方を薬研のような深い谷に囲まれた天然の要害であった。
この難攻不落の城に一条軍は付城を構えて睨み合い、出兵はすでに三年に及んでいた。
一方、邑都中村は主どころか宿老すら居ない空っぽの状態であった。
この様子をじっくりと窺っていた者がいた。
西小路に館を構える一条盛岳である。
盛岳は、日頃から土佐一条氏の当主の座を望んでいたが叶わなかった。
そもそも盛岳を推すものが少なく、せいぜい鍋島城の鍋島右近ぐらいであった。
「万千代はすでに宮仕え、もう戻っては来るまい。されど、何ゆえわしがこの家の主になれぬというのか。わしは一条家の一門ぞ。一門でもない康政や土居が政を牛耳るとは何事か。このまま落飾の身では合点がゆかぬ。」
と、盛岳は右近に吐露した。
「仰せごもっとも。しからばここは西園寺殿と密約してはいかがにございましょう。」
と、右近は献策した。
「西園寺か。」
「はい、今、鬼北にある康政らの軍勢を西園寺の兵と挟み撃ちにいたしまする。これならば、わが郎党だけでも十分にござりましょう。」
「なるほど。しかし、都との関わりはどうする。」
と、盛岳が訊ねた。
「盛岳様、今やこの世は力あるものが政道を司るのでござります。都は都、土佐は土佐。もはや、官位などお気に召されてはなりませぬ。まずは大友と袂を別ち、毛利に与するのが得策にござりましょう。」
と、応えた。
「よし、ならば善は急げじゃ。」
盛岳は早速、西園寺実充に宛てて書状をしたためた。

ところが、その書状が西園寺実充の手に届くことはなかった。
渡川を挟んで対岸にある間崎の領主間崎越後守は、鍋島右近とは犬猿の仲であった。
謀議は、密かに鍋島村に送り込んでいた密偵の報せで、越後守の知るところとなった。
「やれやれ右近め、とんだ謀事を考えておるようじゃな。されど、確たる証拠が欲しいものじゃ。盛岳殿は御一門。証拠もなく康政殿に報せたとて、手は出せまい。反ってわしの命が危ない。」
越後守は密偵にその書状を何としてでも奪い取るよう、命じた。
数日後、密偵は見事に書状を奪い取り、越後守のもとに舞い戻ってきた。
「でかした。」
越後守は書状を握りしめると、馬に飛び乗り、河後森へと駆け出して行った。






天22章 国司下向(その三) [天海山河]

越後が雨後森の付城に着いたのは、もう夜半を過ぎた頃であった。
西の方を指していた弓張月もその彼方に隠れ、辺りは虫の声に遮られて、軍馬の嘶きがかすかに響くだけである。
康政が寝所で休んでいると、
「小松谷寺様。」
と、宿直の者が部屋の外から声をかけた。
康政は起き上がり、
「何事か。」
と、返した。
「間崎殿が火急の用にてお目通りを願い出ておられまする。」
と、宿直は答えた。
「間崎殿がか。何ゆえこのような夜更けに参ったのじゃ。」
「畏れながら、間崎殿は子細を申しませぬ。ただ小松谷寺様と土居様に申すとのみ。」
「そうか。余ほどの訳があったのであろう。間崎殿を奥の間に通しておけ。」
と、康政は命じた。

康政と土居家忠が奥の間に行くと、越後が平伏して待っていた。
袴の裾が夜露に濡れたのであろう。膝までたくしあげている。
「越後殿、斯様な夜更けに如何した。」
と、家忠が声をかけた。
「ははあ。畏れながら、御所にて不穏なる噂を耳にし、我が間者に調べさせたところ、斯様なものを手に入れ、一刻もと思い、馳せ参じ候う。」
と、越後は例の書状を取り出し、家忠に渡した。
家忠はそれに目を通すと、
「これは。」
と、声を上げた。
「土居殿、いかがなされた。」
康政が訊ねると、
「康政殿、我らは前後に敵を抱えておるやもしれませぬな。」
と、家忠は書状を康政に手渡した。
康政はじっくりと目を通した。
その内容は俄には信じ難かった。が、さも無きも無しと、康政は思った。
一条房家には家督を継いだ房冬や本家の房通の他に尊快、房忠、教行、兼朝、教快という子がいた。多くは分家して藩屏に列しているか、尊快や教快のように奈良で出家しているのだが、盛岳はその性格ゆえに、仏門にありながら剃髪せず、西小路の館に逗留していた。
「この密書はいつ手に入れた。」
と、康政は越後に訊ねた。
「昨日の朝にございます。」
「場所は。」
「小塚(※1)の渡にて鍋島の間者より手に入れ申した。」
と、越後は答えた。
康政は少し顔を曇らせた。間崎と鍋島の仲が悪いことは周知であった。
むしろ密書が偽りであれば良いと思うのだが、盛岳の自筆であることは明かである。
「して、鍋島の間者は如何した。」
と、康政が訊ねた。
「当方にて処分いたし候う。」
と、越後は答えた。
越後の処置は理にかなっているとはいえ、時が経てば、盛岳方に気付かれる。
「間者が西園寺に至って戻るまで五日、いや三、四日か。」
と、康政は思慮に切迫した。
実は、土佐一条氏には表向き、見えない傷があった。
五十三もの城持ち衆がいる幡多の所領は同じ四国の讃岐の国と同じくらい広く、そのいずれもが一条氏を快く思っているとは限らないのだ。殊に、大潟(※2)の入野氏や宿毛衆を束ねる小島氏は下向した教房の懐柔によって従った経緯があり、もし一条氏に内紛が起これば、すぐに反旗を翻すことは火を見るより明かである。
康政は天を仰ぎ、ふと越後に目を落とした。
越後は生乾きの袴が痒いのか、たくしあげた裾を上げたり下げたりしている。
康政は家忠に振り向き、唐突に訊ねた。
「土居殿、今日は何日であったかな。」
「文月の五日じゃが。」
と、家忠は答えた。
「そうか、しめた。土居殿、ここは貴殿に任せる。わしは間崎殿とともに一度中村に戻る。くれぐれもわしがここを離れたことは味方にも知られぬよう頼む。」
と、康政は言うと、夜が明けぬうちに河後森の付城を後にした。



※1:小塚は現在の四万十市古津賀のこと。中村市街と古津賀の間には後川(寺後川)が流れている。
※2:大潟は現在の黒潮町入野の辺り。今は住宅や田園だが、かつてここには大きな湖のような干潟があった。 今も東側に少し残っている。