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天21章 物部川(その一) [天海山河]

秦泉寺について述べる前に、少し時を遡りたい。
それは、楠目を落として間もない時のことであった。
物部川の奥、香美郡仙頭の領主、仙頭秀家という男が覚世を訪ねて来たのである。
仙頭氏は長宗我部氏と長い付き合いのある一族で、岡豊が落城の折、援軍に向かったところ、山田氏に行く手を阻まれて、已む無く断念したのである。
「信濃守殿、よくぞご無事で。」
と、秀家は長年途絶えていた誼の復活を喜んだ。
「仙頭殿もよくぞ長きに渡り耐えられましたな。」
と、覚世は秀家を労った。
「こたびの信濃守殿のお陰で我々一族は命を救われ申した。この上は信濃守殿にこの命を預けましょうぞ。」
「これは心強い。」
「ところで、信濃守殿、こたびそれがしが参ったは、是非お会わせしたいご仁がござる。」
と、言うと、随人に目配せした。
すると、その随人が一つ歩み寄り、
「某は池左衛門大夫秀康にござりまする。」
と、口上した。
覚世はきょとんとした。
池といえば、細川一族の池頼定の縁者くらいしか知らない。
その様子に秀家は、
「信濃守殿、このお方こそ、ご貴殿が御舎弟にござりまするぞ。」
と、言葉を加えた。
「何、わしに弟がいたのか。」
覚世には寝耳に水のことである。
「無理もござりませぬ。左衛門大夫殿は亡き元秀殿が池の御前なるお側女にお生ませなさったお子にござる。落城の折はまだ腹の中にあり、御前が城から命からがら大忍庄の池まで逃げて来られ、そこでお生みなされたのでございます。」
と、秀家は説明した。
「この歳になって、まさか弟と再会するとは思わなんだ。」
と、覚世は秀康をまじまじと見た。
確かに風貌だけでなく、背格好、仕草に至るまで赤の他人とは思えない。
「ところで、仙頭殿、秀康の名は如何にして付けたのじゃ。」
と、覚世は訊ねた。
「左衛門大夫殿の名は、某が亡き元秀殿より頂いた秀の字と、国を康らかんとする意をもって付けたのでござりまする。」
と、秀家は答えた。
「そうか。良き名じゃが、秀の字は我が家において宜しからず。いっそう国康としてはどうか。それならばわしの俗名も入っておる。今日より長宗我部左衛門大夫国康と名乗るがよい。ちょうど、比江山の城が出来たばかりじゃ。それを授ける。加えて、我が家の者は大忍には不案内じゃ。国康に仙頭殿、大忍の陣代を務めてくれぬか。」
と、覚世は懇願した。
「新参者に城のみならず、槍の働き場を下さるとは、有り難き幸せ。喜んでお引き受け致す。」
と、国康は頭を垂れた。
「よいか、くれぐれも勇んで命を粗末に致すな。それがわしの唯一の忠告じゃ。せっかくの兄弟の再会もぱあになるからのう。」
と、覚世は笑った。
「は、承知つかまつり候。」
国康はそう答えると、すぐさま比江山城に入り、兵を調えると、秀家と共に韮生郷へと向かった。

韮生郷には久保越中守貞弘をはじめ、柳瀬五郎兵衛道重、萩野織部らが山田基義を守って、頑強に抵抗していた。
その中で目をつけたのが大栃村の柳瀬道重であった。
大栃は物部川が上流に向かって二手に分かれる分岐点にある。
左に進めば久保村、右に進めば仙頭村へと続く。
また、ここは久保村と萩野村を繋ぐ中継地でもあり、ここを手に入れれば、 敵の防衛線を分断することができるのである。
しかし、川の二股の間に立つ城は急流に削られた高い崖の上にある。
「さて、如何にして攻めるかな。」
国康は、手持ちの兵では到底この城は落ちまいと踏んでいた。
無論、仙頭秀家も同じ考えである。
「土地を与えて、調略いたすか。」
と、国康は呟いた。
一方、秀家は近隣の者だけあって、五郎兵衛という男をよく知っている。
そもそも柳瀬氏の本城はこれより久保村寄りの柳瀬村にある。それが何ゆえこの要地を守っているのか。この男にそれだけの理由があるということである。
「左衛門大夫殿、柳瀬殿は国一の高潔者。易々と調略には応じますまい。ここは一手目が肝心。柳瀬殿は話を聞かぬ男ではござらぬ。利で落ちぬ男にならば理を持って落とすが定石。ここは野中殿を使者に立てては如何か。」
と、進言した。
大栃の手前、芳野村の領主野中肥前守貞吉は柳瀬道重の縁者である。
すでに長宗我部氏に降伏し、大忍衆の筆頭として山田の旧臣を束ねていた。
後のことではあるが、秦門でもない、いわば外様衆の山田の旧臣から、唯一長宗我部氏の家老として名を連ねたのはこの貞吉の子である。さらに、それには長宗我部氏の通字、親の字を与えられるという栄誉に浴したのである。
国康も貞吉のことは聞き及んでいる。
「成る程、人となりは確かじゃな。つくづく山田は良き家臣を持っていたものよ。」
と、国康はまた呟いた。
国康は軍事にはあまり向かぬ男であったかもしれない。
性格はどちらかと言えば温厚で、決断力にも欠けるところがある。それは長く身を隠していたためかもしれないが、むしろそういう性格であったのであろう。
そのため、これといった功績は残らず、唯一のそれはこの山田氏の攻略であった。
しかし、それには七年もの月日を費やしたのである。
さて、柳瀬道重の調略に向かった貞吉は、これまた数年係りで口説いた。
大栃を攻略したとき、すでに年号は天文から弘治に代わっていたのである。

天21章 物部川(その二) [天海山河]

これを境に、一気に山田方は崩れた。
久保宗安は降伏し、それに連なる小豪族も次々に従った。
ただし、萩野織部だけは従わず、本山氏を頼って落ちていった。
取り残された山田基義はしばらく身を隠して潜んでいたが、ついに精魂尽き果て病に伏すと、国康に降を願い出た。
「大変にござる。左衛門大夫殿、弥四郎なる者が降伏の書状をもって参りましたぞ。」
と、仙頭秀家が飛び込んできた。
国康はいつものことと思い込み、
「降伏などいつものことではないか。今日はどこの者じゃ。」
と、訊ねた。
「山田にござる。」
「山田。」
「左様、山田治部少にござる。」
「何。治部少か、いったい何処にいたのじゃ。」
「山奥の社に潜んでおったようたにござる。」
「では、早速その弥四郎なる者に案内させ、治部少をここへつれて参れ。」
と、国康は言った。
すると、秀家は、
「それがこの弥四郎、治部少の子でござりまして、申すに、治部少は病の床にて、もはや立てぬそうにござる。」
と、言った。
「何と、三千貫の大家がさほどに侘しくなるとはな。」
と、国康は呟いた。
「今は治部少と弥四郎の二人で隠れていたようで、従う者は一人もなしと。」
「敵とはいえ、憐れじゃのう。」
「まことに。」
「よし、まずは弥四郎に案内させ、粥でも治部少に与えてやれ。わしは兄上に治部少の仕置を訊ねて参る。」
と、国康は岡豊へ向かった。

一方、秀家は弥四郎とともに基義の隠れ家に向かうと、擦りきれた衣を身に纏った男がすすけた顔で横たわっていた。
囲炉裏に掛けた鍋には蜘蛛の巣が張り、かげろうを喰っている。
「弥四郎か。」
基義は弱々しく声を掛けた。
「父上。」
弥四郎は基義のもとに駆け寄った。
「どうであった。降は叶ったか。」
と、基義は訊ねた。
どうやら基義は目が見えないようである。
弥四郎は答えに窮し、秀家を見た。
秀家は頷いた。
「お喜び下さりませ、願いました。」
と、弥四郎は答えた。
「良かった。良かった。」
基義は白く濁った眼に涙を浮かべた。
「父上、しばらくいたせば迎えが参りまする。ゆっくりとお休み下され。」
と、弥四郎は基義を寝かせた。
「弥四郎殿、粥の用意でもいたそうか。」
と、秀家は声を掛けた。
武技に疎い基義がここまで長宗我部氏に抵抗したことに、秀家はどこか感銘を受けていた。

さて、岡豊では国康が基義の処分を巡って、覚世と揉めていた。
覚世は、
「国康よ、すぐに基義の首を打ち落とし、亡父の墓前に捧げよ。」
と、命じた。
「恐れながら、兄上、もはや治部少は立つこともままならぬ身。到底、我らに逆らうことは出来ませぬ。まして、降を願い出でた者を斬っては、後々我らに降を願う者が現れなくなりまする。ここは寛大なるご慈悲を。」
と、国康は言った。
「国康、手ぬるいぞ。これほどまで我らに抗しておいて、成すこと尽きて許せとは虫がよいとは思わぬか。そもそも、そなたが手ぬるい故、無駄に時を費やしたのじゃ。基義の首を以て挽回せよ。」
と、覚世は罵った。
覚世は温厚な国康なら、きつく言えば従うと高を括ったのである。
ところが、
「確かに、こたびの不始末、この左衛門大夫にあり。治部少は敵将ならばその罪は無し。これ天道の理ならば、それに違えるは家門を汚すことになり。ならばこの左衛門大夫、天道に従いこの首を墓前に捧げましょう。」
と、国康は激しく言い立て、諸肌脱いて、脇差に手を掛けた。
国康の目は血走り、はったりではない。
「待て。」
覚世は周章てて国康の手を押さえた。
「何をされる。」
と、国康は怒った。
「それはわしの台詞じゃ。基義ごときの首でそなたが腹を切ることはない。わしが悪かった。そなたに命を粗末にするなと申したのはわしじゃ。それ故に時がかかったのはわし不徳じゃ。そなたにも基義にも罪はない。よし、基義の命乞い、承った。」
と、覚世は基義の降伏を認めた。

その夜、覚世は吉田周孝と酒を酌み交わした。
「今宵の般若湯は身に染みますな。」
と、周孝が言った。
「全くよ。今宵はほとほと身に凍みたわ。」
と覚世は昼間のことを思い出した。
「染みましたか。」
「ああ凍みたとも。」
「左様でござるか。それは良きことにござる。」
「ああ、良きことにじゃった。」
と、覚世は盃をぐいっと飲み干した。
国康のことがよく分かったような気がしたのだ。
「ほほう。今宵は進みますな。」
と、周孝は笑った。