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天19章 覚世誕生 (その一) [天海山河]

山田基義を物部の山間に追いやったことで、国親は香長の広大な平原を手に入れた。
その勢力はおおよそ一万貫に及んだ。
「これで、本山に伍しますかな。」
と、十市(細川)豊前守定輔が訊ねた。
定輔は外様でありながら、すでに国親の藩屏に加わっていた。
その理由はこの者が今後、香美郡制圧の鍵となる男であったからである。
「いや、まだまだでござる。敵を侮ってはなりませぬぞ。それに山田の息の根を止めたわけではござらぬ。いつまた吹き返すやもしれませぬぞ。」
と、吉田周孝が答えた。
周孝から見て、十市定輔はやや乱世を生き抜くには物足りぬ所がある。
それはこの男の細川一門から香る風流さのせいかもしれぬ。
事実、宗桃と号して連歌などの手習いはこの土佐において群を抜いていた。
ここで少し整理をしておく。
かつて一条房家が存命であった頃、土佐の勢力図は一大名に七人守護と称された。
しかし、房家が世を去ってわずか十年で、吉良氏、大平氏が滅び、津野氏は一条氏に組み込まれ、七人守護に次ぐ山田氏も国親によって没落に憂き目あった。
また、武田流名門の香宗我部氏は安芸氏に所領を侵され風前の灯火である。
その一方、本山氏は土佐中央部を手中に治め、おおよそ一万三千貫、一条氏は幡多、高岡二郡のほか伊予の御庄、鬼北の河後森を押さえ、おおよそ三万貫と、他を圧倒していたが、どちらも度重なる戦で民衆は疲弊していたのである。
「しかし、山田相手に兵を損じることなくあっという間に城を落とすとは、誠に見事な戦ぶりでございますな。」
と、定輔は感嘆した。
「ところで、十市殿、この度の戦でどの者を雇えば良いか、見当付きますかな。」
と、周孝が訊ねた。
周孝はまだ息の根がある山田氏を内側から崩そうとしていたのである。
しかし、長年敵対していた山田氏とは音信が途絶えていたため、この老獪な脳ミソを蓄えた男ですら知恵を回す所が見当たらない。
そこで山田氏の旧臣たちと太いパイプを持つ定輔が必要だったのである。
「まずは、川窪殿でござろう。」
と、定輔は即答した。
定輔の指した川窪とは、名を川窪左衛門尉定氏といい、楠目の土居の内に住む客将クラスの小禄の侍であった。
「そのような小身を何故でござろうか。」
周孝は訝しげに訊ねた。
「川窪殿は仏門に帰依しておられる。信仰深く、業浅く、精神屈強にして心清らかなるご仁。生まれは大和と聞き及ぶが、外様でありながらこの度の戦で最後まで主に仕え、城を守っていたと聞きまする。また、この友に奥宮殿もごさりますれば、奥宮殿は亡き西内殿と昵懇。西内殿には幼き子がござりますれば内に取り込んで遺恨を絶つのが宜しかろう。」
と、答えた。
奥宮とは奥宮主膳守扶盛という男で、定氏と同様に外様の客将であった。
数代前に陸奥国奥村から紀伊国を経て土佐に渡って来た。そこで、名を奥宮としたという。。
扶盛と定氏は同じ境遇、同じ一向門徒であったため気心が通じるところがあった。
後に、この一族が同じ戦で壮絶な討ち死にをすることになろうとは知るよしもない。
このときはただ、山田衆の筆頭として長宗我部氏に仕えることとなったのである。
「さらにこの両名、韮生衆の評判もよい。」
と、定輔は付け加えた。
「なるほど。」
と、周孝は定輔に感心した。
策略においては他の追随を許さない周孝でも、人材登用の目利きではない。悲しくもそれは周孝のような小邑の首魁では身に付かず、それなりの領主の器を持ったものでなければならぬ。
ー機敏にして利するを見るは軍師の定め。されど、治政は君子の器量がなければならぬか。ー

その夜、吉田城へ戻った周孝はろうそく明かりを頼りに書物に目を通していた。
そこへ吉田重俊が酒を片手にやって来た。
重俊はふと、周孝の横顔に寂しさを覚えた。
「兄じゃ、如何した。元気がないではないか。」
周孝は振り向き、
「おお、大備後か。」
と、答えた
「兄じゃまでもが、わしをその名で呼ばれるな。して、こんな夜更けに孫子でも読んでおるのか。」
と、重俊が覗き込んだ。
そこには、見馴れぬ文言が並んでいた。
「子曰く…。難しゅうてさっぱり分からん。何じゃこれは。」
周孝はため息をつき、
「昨今流行りの儒学なるものじゃ。国親殿の書庫にあった故、借りてきた。」
と、答えた。
「ほう、ついに兄じゃも、似非聖から高野聖にでもなられるおつもりか。これは愉快。」
と、重俊はおどけた。
周孝は憮然として、
「馬鹿者。この世には上の者がおるということじゃ。広くなればなるほどその裾野とともに人の山も高くなる。そなたのように勝ち戦に酔うてはおられぬ。」
と、そっぽを向いた。
その様子に重俊は、城で何かがあったのだなと察した。
重俊はお猪口に酒を注ぎながら、
「兄じゃ、まあ飲め。今宵は飲まねばならぬ日ぞ。いったい何があったかは存ぜぬが、わしらはその日その日を懸命に生きて行かねばならぬ身の上よ。日々酒が旨い身の上ではない。明日をも飲めぬ身の上ぞ。誰が我らの代わりを勤めてくれようか。味の変わらぬ酒もまた罪ぞ。歌い、笑い、泣き、叫び、喜ぶ。これがわしらの流儀。高潔な酒は飲めぬかもしれぬが、酒の味わいを知っておる。旨いぞ、今宵の酒は。格別じゃ。」
と、重俊はお猪口をわざと音見立てて机に置いた。
酒は波打ってお猪口から飛び出し、書物を濡らした。
「わははははは。」
周孝が笑った。
「そうじゃ。その通りじゃ。よくぞ申した。大備後。飲むぞ。今宵は飲むぞ。じゃんじゃん注げ。」
「よし、来た。」


天19章 覚世誕生 (その二) [天海山河]

さて、十市定輔はさっそく川窪定氏を誘い、長宗我部氏に仕官するよう促した。
ところが、当の定氏は、
「それがしは主君を失い、今は仏門の身。新たに仕官いたすつもりはござらん。」
と、断ってきた。
「やれやれ、それでは事が進まぬ。」
定輔は改めて長宗我部氏の意向を伝え、仕官するよう促した。
「何と、敗残の某に山田衆の惣代を務めよと仰せか。」
定氏は驚いた。
惣代はいわば取り纏め役である。
山田村の住人は殺されることを恐れて四散していた。
それを呼び戻して山田村を復興せよというのである。
そもそも、定氏は俸禄などで心を動かすような男ではない。むしろ、益のない重役にこそ己の価値を見出だす男である。
十市定輔はそれを十分心得ていた。
周孝と定輔の違いはここにある。
つまり、周孝は戦を始める策略家であり、一方、定輔は戦後処理の策略家であった。
この対極的な機関は、その後の長宗我部氏の伸長に如何なく発揮されるのである。

川窪定氏が長宗我部氏に仕官すると、山田の旧臣どもが彼を通じて長宗我部氏に降を願い出た。
そこで国親は高禄や城持ちの者から人質を取って、岡豊城下に住まわした。
人質の中には、定氏の嫡男越中、奥宮扶盛の嫡孫正之を始め、西内常陸の子左近もいた。
すでに城下には、十市弥四郎と掃部助兄弟、池頼和ら細川一族の人質もおり、国親はこれらの人質を小姓として取り立てた。
「国親殿、昨日は徳弘三郎左衛門が下りましたぞ。」
と、周孝が言った。
徳弘三郎左衛門は立田村の小領主で、物部川の西岸で唯一残っていた。山田氏の与力であったが、呆気なく楠目城が落ちたため、一戦も交えることができず、居城に籠っていた。
国親は苦笑いした。
「また人質が増えそうじゃな。」
岡豊城下には沢山の外様衆の子弟たちがいる。
岡豊の集落は城の南東にあり、北には山が迫り、南は二本の川が交差して、それほど広くない。
「もはや収まりきれませぬな。」
と、周孝も苦笑した。
「小姓に取り立てて城の中に住まわす訳にもゆくまい。」
国親はため息をついて、南の方を眺望した。
南には田園地帯が広がり、点々と重臣の江村、中内、中島、そして周孝の屋敷が見える。
「あれに屋敷でも構えるか。」
と、国親は呟いた。
「しかしながら、あの辺りは湿地が多く、柱を立てることが出来ますまい。いっそ折坂山の麓が宜しかろう。」
と、周孝は言った。
その時、周孝はふと良い考えが浮かんだ。
「そうじゃ、国親殿。あれには隠渓寺がござる。そこで子弟らを養育しては如何か。いずれ御旗本になる者らでござる。無学であっては勤まらぬ。ちょうど、吸江庵に忍性なる学士が子弟に弁を執っているとか。なかなかの評判でござる。」
忍性は後に忍蔵主と呼ばれ、吸江庵の主座となる人物である。
国親は周孝の提言を受けて、その忍性なる学士を呼んだ。
「そなたが忍性か。面を上げられよ。」
と、国親が訊ねた。
忍性は面を上げると、思わぬことを言った。

天19章 覚世誕生(その三) [天海山河]

「国親様、お久しゅうござりまする。」
国親は狐に摘ままれた面持ちである。
「はて、わしが貴僧に会ったことなどあったか。」
忍性は笑みをこぼし、
「さすがにお忘れでござりますか。わたくしはかつて国親様が吸江庵を訪れになったおり、泥だんこを捏ねていた童にござります。」
と、答えた。
「まさかあの時の。」
国親はかれこれ十数年前の事を懐かしく思い出した。
「はい。まだわたくしが八つにも至らぬ頃でございます。」
「確か、梅軒先生が居られた時であったな。」
「はい。国親様に寺領を寄進していただき、わたくしども孤児の命を救っていただきました。誠に有り難うござりまする。」
「左様であったか。まこと不思議なる再会かな。確かあの時、一人の童が光り輝くほどに磨いた泥だんごをわしの手に乗せたのであったな。まさかそれが貴僧であるか。」
と、国親はまるでだんごが乗っているかのように手を丸めて見せた。
「はい。まことに失礼を致しました。」
「ははは、何を申す。わしの手にまだあの時のだんごの重みが残っておるわ。」
と、国親は両手を上下に動かした。
「ところで、ご用とは如何なるものにございましょうや。」
と、忍性は訊ねた。
国親は手を下ろし、
「貴僧にわしが預かる人質の子弟を教育してほしいのじゃ。」
と、答えた。
「なるほど、それはよき事にございます。喜んでお引き受け申し上げまする。」
「是非とも頼んだ。それに及んでわしに用立ててほしいものはないか。」
と、国親が訊ねた。
「では恐れながら、折角のお申し出なれば、人質だけではなく、貴賤に関わらず学問を授けては如何にございましょう。 わたくしが思うに、この乱世において武を持って国を守らんとする者は必ずしもその業を成さず。文武揃って初めて叶うものにございます。このことを軽んじる者は詰まる所、国を傾けます。もし、民の内より知徳を得た者が現れれば、国難に立ち向かうことも出来ましょう。」
と、忍性は進言した。
「なるほど、確かにそうじゃな。」
国親には思い当たる節がある。
山田討伐で一気に広がった領土を国親は如何にして守ればよいか、施策に苦慮していた。
周孝や十市定輔がいるとはいえ、彼らもそれなりの歳である。その子弟に必ずしも彼らの才を継ぐ者が現れるとは限らない。次代に不安が漂う。
「よし、左様に触れを出そう。」
国親は快諾し、隠渓寺に軒を増設して、領内の子弟、農民に至るまでもが集えるようにした。
国親が行ったこの施策は、土佐に偉大な遺産を残した。
忍性は岡豊城下で当時最も進んだ学問である朱子学を講じた。
それは土佐南学として城下に広がり、貴賤の境なく論弁できる者が現れた。
後にこの南学の徒は長宗我部氏の政から退けられ、関ヶ原の後に山内氏が土佐に入るとさらに消滅の危機に瀕した。
しかし、草の根で細々と受け継がれ、この地を開拓した土佐の参政野中兼山によって見出だされ、再び息を吹き替えしたのである。
国学となった南学は時を経て、武市半平太、吉村虎太郎、坂本龍馬、中岡慎太郎ら土佐四天王のような幕末の志士を生んだ。

「学舎が繁盛しておるようですな。」
と、周孝が言った。
「そのようじゃな。」
国親は学舎の評判に上機嫌である。
「またまた、川窪殿の執り成しで下った者が現れたとか。」
と、周孝が訊ねた。
国親は川窪定氏からの書状を周孝に手渡した。
周孝はそれに目を落とすと、
「ほう、上村に馬場、五百蔵(いおろい)、山崎までもか。これはよい。」
と、頷いた。
植村の領主上村甚左衛門と甫木山城主馬場因幡はどちらも長宗我部氏の分流であった。いつの頃からか山田氏に仕えていたのである。
不思議に思うかもしれないが、本家から離れて他家に仕える例は少なくない。
事実、本山氏に使える大黒氏や国沢氏、中氏は長宗我部氏の分家で、一条氏に仕える光冨氏もまたそれであった。
一方、五百蔵氏と山崎氏は韮生の入り口に城を構える豪族である。
「韮生に攻め込めますな。」
と、周孝が言った。
「いや、まだ大谷左馬助が居るではないか。」
国親は烏ヶ森の南、大谷村を指差した。
大谷左馬助は山田氏の一門で、高い山の上に要害を構えて頑強に抵抗していた。
「それには心配及びませぬ。」
周孝は既に手を打っていた。
香宗我部氏の家臣村田八郎左衛門と手を組んで、挟み撃ちにしたのである。
大谷左馬助は獅子奮迅の活躍を見せたが、ついに力尽き、首を討たれた。
大谷氏の悲劇は今もその地で語り継がれている。

「さてさて、これで心置きなく韮生に攻め込める。」
周孝が一段落ついたと思った時、またも厄介なことが起きたのである。



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