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天17章 野の虎 (その四) [天海山河]

さて、城の大手では辛くも中に 逃げ延びた大津方が門を閉じ、櫓の上から矢をつるべ射ちして寄せ手を拒んだ。
岡豊方も負けじと射手を堀端に廻らせて一斉に矢を放った。
両軍、堀を境にしばらく矢合戦と相成り、箭坪の中の柄が尽きた者は石のつぶて握りしめ、敵に向かって投げつけた。
「さては城方、矢柄が尽きたな。城門を打ち破れ。」
と、久武則武が命じた。
すると、大きな木槌を持った郎等どもが門の際に駆け寄り、めい一杯に扉を叩いた。
扉は中程で大きく折れ曲がり、ばたりと音を立てて崩れた。
「討ち入 れ。」
岡豊方は橋を渡って城中に駆け入れば、大津方もここを最期と思い締め、主従一所に鬼神となって斬りかかった。
岡豊の兵は功に逸った隙があったか。敵の一念発起に気圧され、あまた討たれて、慌てて城外に退いた。
この様子に、国親は矢留を命じた。
「殿、敵はわずか、あと一歩にございますぞ。」
久武則武は総攻めの下知を乞うた。
「無論存じておる。されど今は一時を置いて攻めるが良かろう。敵は意を決しておれば、容易に討ち入ったところで我らの兵が多く打たれるだけじゃ。暫く待て。」
と、国親は返した。
一方、花氏は家臣郎等合わせて三十五人となっていた。
しかし、その士気は岡豊方のそれよりも遥かに高く、敵が現れるのを今か今かと待ち構えていた。

さてさてその頃、新右衛門らはやっと岩山を踏破して城の裏手に出た。
城の裏手には一兵もなく、新右衛門は、
「皆、城の外に聞こえるほど、声を上げよ。」
と、言うと、音声を上げて討ち入った。
国親もこの声に合わせて、総攻めを命じた。
表と裏、双方から上がる鬨の声に、城方は、
「さては裏手に兵を廻しておったか。」
と、ざわめいた。
花氏は、
「皆、騒ぐでない。敵は国親のみ。彼の者を討って冥土の土産につかまつらん。左様心得よ。」
と、言うと、主従郎等再び太刀を取り直し、円陣を張って身構えた。
暫くすると、ニノ段の木戸を蹴破って、岡豊の兵が現れ、時を同じくして、城門からも敵方が群れをなして雪崩れ込んできた。
城方は音も立てず、涼やかにこちらに視線を向けると、会釈もなく、一念定めて敵のど真ん中に一人、また一人と斬りかかった。
城中に紅の飛沫が舞い上がり、大津侍の最期は末代までの語り草となった。
花氏もまた、
「国親の面を拝まん。」
と、最後まで刀を振るい、敵中進むところを岡豊方の兵に遮られ、そこかしこを横斬りされ息絶えた。
国親が城に入ると、天竺主従は一人として背に傷を負った者はなく、まくらを並べて討ち死にしていた。
「敵ながら潔い振る舞いよな。流石名のある武士の亡骸よ。捨て置くべきに有らず。」
と、花氏ら主従の亡骸を城の東の小山に丁重に弔った。

この大津合戦の有無は近年の研究で、疑問視されている。すでにこの時、文明年間の津野氏の攻撃によって天竺氏は滅びていたのではないかというのだ。
しかし、国親がここで戦があったことを窺わせる書簡が今日に伝わっている。


この度大忍庄において比類なき高名に候。神妙の至りに候。しからば先々中沢弐反大津郷扶持候。なお忠節専らに候。望み次第申し付けるべくものなり。
天分十六年五月廿一日 国親
村田かたへ

村田とはあの村田八郎左衛門である。
この中で八郎左衛門は香美郡大忍庄で無類の働きを見せたようである。
そこで、なぜか主でもない国親がお礼に大津郷から二反もの耕作地を与えるというのである。
大忍庄は大津とは香長平野の東の端と西の端、いわば真反対の所である。
そもそも、村田家は香宗我部氏の庶流であり、代々それに仕えて来た。八郎左衛門の父は大永年間の安芸氏との戦いで香宗我部秀義と運命を共にしている。
以来、村田家は安芸氏との最前線にあり、その侵入を阻んできたのである。
この時の大忍庄での戦も、安芸方とのものと見える。
はた違いのところで起きた戦の戦果に喜んだ国親の意図からも窺えるように、一条方の城である大津を守るべく、その同盟者の安芸氏が兵を出したのであろう。
これを退けた八郎左衛門に国親は扶持をもって応えたのである。
ところで、後にこの二反の土地を八郎左衛門は断っている。
これを受けて、周孝の嫡男次郎左衛門が仲介して、


彼の坪付、中沢弐反に子細あり。村田が返上申し候は、替地として吸江(庵)分より弐反、今土居の西に仰せ付けられ候。この上は末代まで作り下されること紛れなきものなり。(以下略)
天分十六年六月吉日 吉田次郎左衛門


と、国親に書状を送っている。
どうやら、この時国親は吸江庵の利権も手にいれたようである。
そしてまた、吉田一族が村田家を介して香宗我部氏と深く関わってゆくこととなるのである。

天17章 野の虎 (その五) [天海山河]

ところで、国親が大津城を攻めていた頃、東の坂折山からこちらに向かって進んで来る一団があった。
その数三百五十騎。
黄旗に八幡大菩薩の揮毫と白旗に剣片酸草の紋を蒼天に靡かせている。
郡南の勇将、横山左京亮道範と下田駿河守頼晴の軍勢である。
横山道範は介良花熊の城主で、その祖先は武蔵国横山庄に興り、土佐に入って安芸氏の家臣になったという。いつの頃か定かではないが、介良に移り、一帯を領したのである。
道範は、岡豊八幡宮の神託を恐 れる家臣たちに、
「何を恐れることがあろうか。どうせ、女童をたぶらかす方便よ。」
と、一笑に伏し、天竺花氏に味方していたのである。
一方、下田頼晴は国親のことが好きではなかった。
そもそも、下田氏は数代前に山田氏の一族、山田道泰という男が下田郷にやって来たことに始まる。長年、長宗我部氏とは所領が接してきたこともあり、常に警戒の念を抱いていたのである。

道範と頼晴が坂折山の峰伝い片山の東に陣取ると、しばらく誰かを待っていた。
香美郡徳善城主の公文将監重忠という若い地侍であった。
重忠は土佐郡金山城主の石谷民部少輔重信の子で、公文将監正信にその気概を見込まれて、養子となったのである。
しかし、この日、重忠は物部川まで来たものの、数日前の雨で水かさが増し、渡れなくなっていたのである。
そうとは知らない道範と頼晴は、刻限になっても現れない重忠に苛立ちを感じていた。
すると、戦の様子を見に行かせていた斥候の者が慌てて戻って来た。
「殿、すでに大津は落ちておりますぞ。」
「何、遅かったか。」
道範と頼晴は天を仰いだ。
八百に三百五十では到底勝ち目はない。
陣中は落胆の空気に包まれた。
「戦は数に有らず。将の謀と時の運によるものぞ。」
と、突如、道範が喝を入れた。
「皆々、よろしいか。おおよそ戦に臨む者は出ずるを最期と思い定めるものぞ。出たからには敵の旗を拝まずに帰れようか。我に策あり。謀をもって国親を討ち取らん。」
と、風に靡く旗を下ろして巻かせると、坂折山の坂道を登り始めた。
峠に差し掛かったところ、向こうから七片酸草の旗を掲げた徒武者どもがやって来るではないか。
道範と頼晴は馬を下りて、道の両脇に寄った。
これを見た岡豊の武者どもは、
「これは降参のために加勢に来られたか。今となっては何のご用に立てようか。」
と、嘲笑って、通り過ぎようとした時である。
路傍に伏していた旗が、ぱっと空に上がった。
「横山左京なり。」
「下田駿河なり。」
道範と頼晴は名乗ると、槍を取り、敵に向かってまっしぐらに突いてかかった。
「謀れたか。」
武者どもは慌てて槍を取り直したが、左右縦横に打ち破られ、幾ばくか討ち取られて、四方八な方蜘蛛の子を散らすが如く逃げ出した。
「逃すな、討ち取れ、討ち取れ。」
道範と頼晴は残兵を追って峠のてっぺんまで進んだが、敵はあちらこちらに逃げたため、追ったところで、要領を得ない。
「いざこのまま大津へ押し寄せ、国親を討ち取るべし。」
と、頼晴が言うと、道範は軍勢の少なさを鑑みて、
「ここは急ぐべきにあらず。公文殿を待って共に向かうべし。」
と、答えた。
斯くして、なんとか逃げ延びた岡豊の兵は、この事を国親に伝えた。







天17章 野の虎 (その六) [天海山河]

敵が攻め寄せてきたことを知った国親は、
「これはいかぬ。すぐに岡豊に戻れ。」
と、撤退を命じた。
ここ大津は半島のへさきにある。
長居してもしも多くの敵が攻め寄せてくれば、退路を断たれて袋の鼠となる。
「殿、恐れながら、この城は如何なされまする。」
と、昇田新右衛門が訊ねた。
「捨て置くしかあるまい。」
と、国親は答えた。
すると、
「ここはこの備中にお任せあれ。」
と、吉田周孝が進み出た。
「幸い、この城は天然の要害に囲まれておりますれば、五十ほどの寡兵にても十分にござる。まずは早う城にお戻りくだされ。」
「よし、では頼んだぞ。」
国親は周孝に城を委ねて出立した。
坂折山の頂上には敵の旗が靡いている。
横山右京亮道範と下田駿河守頼晴は公文将監重忠の到着を待っていた。
ーおのれ、介良衆どもめ。すぐに城へ攻め寄せなかったことを後世まで悔いよ。ー
国親は、
「ものども、一息に敵を蹴散らせ。」
と、言うと、陣頭に立って一気に坂をかけ登り、槍を取って真一文字に敵陣を駆け抜けた。
身構える間もなかった横山、下田勢は幾ばくか討たれ、浮き足立って逃げ出した。
「やれ、敵は総崩れじゃ。追え追え。」
と、久武肥後守則武が郎等を従えて敵の後を追った。
それを見た国親は、
「肥後守、戻れ。すぐに敵が城に攻め寄せてくるぞ。」
と、制止した。
この時、東から公文重忠が何とか川の浅瀬を見つけて渡り終えると、大津を目指して進んでいた。
他にも西からは重忠の父、布師田金山城主の石谷民部少輔重信が攻め寄せていた。
「致し方無し。」
則武は追撃を諦め、国親の後を追って岡豊城へ戻った。

しばらくして、坂折山に公文重忠がやって来た。
辺りを見れば、折れた軍旗があちらこちらに散らばり、味方の兵が討たれて横たわっている。
勝敗は明らかである。
「しくじったか。」
重忠は臍を噛んだ。
「戦に遅れて、このままおめおめと帰れようか。ここは一戦つかまつらん。敵は多勢、我は無勢。殊に敵地なれば、ただ潔く討ち死にせん。」
と、重忠は鬨の声を三度挙げて岡豊を目指して坂折山を駆け降りた。

その声は二十町離れた岡豊城にも届いた。
門櫓からこちらに向かって駆け寄せる重忠の姿が見える。
吉田備後守重俊は、
「敵は百五十騎ほどにござりまするが、如何致しましょう。」
と、国親に訊ねた。
すると、傍らにいた久武則武が、
「殿、世には命知らずという者もござります。愚人とはまさにか様なる飛んで火に入る夏の虫がごときもの。すぐに討ち取るべきと存じまする。」
と、述べた。
城中は則武の意見に同心する者がほとんどであろう。
しかし、国親はそうではなかった。
「横山、下田は先の戦で勝ち誇ったがゆえに不覚をとった。戦は兵の数にあらず。いま我らは一戦の勝ちに誇り、少兵を見て侮る。これ敗軍の兆しあり。敵は今、先の恥辱を雪がんとの一心。これ勝軍の兆しあり。まともに当たれば我らは数多の兵を失おう。ここは手向かい無用。日も暮れれば、夜討ちを怖れて退却致そう。これぞ、戦わずして勝つ良将と言うべきものぞ。」
と、言った。
そもそも、国親は兵を失うことを嫌った。
今、長宗我部勢は多くとも八百騎が限度である。
一大名と残る四守護の中で最も兵の動員数が少ないうえ、隣郷山田氏にも劣る。
これでは到底生き残ることは出来ないのである。
「承知つかまつった。」
国親の意を察する重俊は城門を固く閉じて、城兵に敵に手出しすることを禁じた。

公文勢は攻め寄せてきたものの、手向かう者が一人もいない。
重忠は石清水川を前にして城に悪口を飛ばして挑発してみたのの、やはり城門が開くことは なく、捨て置かれたままであった。
次第に陽は西に傾き、空は茜色から紫紺に変わって行った。
「さては案内知らずの我らを夜討ちして討ち取る手筈か。遅れをとった上に敵の策にはまるとは恥の上塗りに他ならぬ。ここは一先ず引き取るしかあるまい。」
そう言うと、重忠は兵をまとめて徳善へと引き返して行った。


天17章 野の虎 (その七) [天海山河]

ある日こと、城門の辺りが騒がしい。
「頼もう。頼もう。」
と、男の声がする。
男は長槍を携え、背中に前の字をあしらったつづらを背負っている。
「何奴。」
男の様子を見た門番が怪しんだ。
「某は福留飛騨守儀実と申す。帰参しに参った。
と、男は答えた。
門番は福留などという妙な名に覚えがない。
いよいよ怪しんで、
「何しに参った。」
と、槍をもって男の前を遮った。
「これは無礼な。」
男は槍の塩首を掴んで、ひょいとひねった。
すると、門番は、
「あれ。」
と、声を上げてひっくり返った。
「これは狼藉者め。引っ捕らえろ。手向かうならば討ち取れ。」
と、回りにいた城兵どもが男を目掛けて駆け寄せてきた。
男は自らの槍を取り、逆輪の辺りを握りしめ、鞘を着けたまま石突をそちらに向けて、走り寄 る城兵どもを次々に突き倒して行った。
「狼藉者じゃ。狼藉者じゃ。」
その声に国親も身を乗り出し、声のする方を見た。
城門の先でつづらを背負った男が一人、無数の城兵を相手に大太刀回りを演じているではないか。
すると、つづらに描かれた前の字が目に入った。
それはかつて岡豊に帰参した福留蔵人少輔房吉が息子の隼人に与えたつづらであった。
「隼人ではないか。その者に手向かい無用。」
国親は声を上げると、急いで城門へと駆け出した。
近付くにつれて男の顔が脳裏に蘇ってきた。
「若殿、いえ殿、お久しゅうござりまする。」
儀実は深々と頭を下げた。
「隼人よ。戻って参ったか。」
国親はこの突然の来訪者に驚きを隠せなかった。
それもそのはず。儀実は房吉と帰参した後、それまで疎開していた斗賀野城主米森玄蕃にその器量を見込まれ、実子もいなかったため、養子として引き取られたのである。
その時、房吉から鎧一領を与えられ、前の字の入ったつづらにそれを納めて斗賀野へと向かったのである。
「はは。まだ今戻りましてござりまする。」
儀実は気恥ずかしそうであった。
「どうした。左様に畏まって。先ずは館に入って、訳でも聞こうか。」
国親はそう言うと、儀実を本丸館へ誘った。

儀実の話を一通り聞いて、
「なるほど、元服して今は隼人ではなく飛騨守儀実というのじゃな。して、玄蕃殿に子ができたから居づらくなったのか。」
「いえ、そうではござりませぬ。玄蕃殿は律儀なお方で、某をあくまでも継子として扱ってくれましたが、やはり家は実子あればそれが継ぐのがと思い、某からお暇を乞うたのでござりまする。」
「そなたも律儀じゃな。そうそう、父君も律儀であった。あの後すぐに亡くなられて、福留の家は絶えてしもうた。せっかくそなたが戻ったのじゃ。どうであろう。こたび我らは大津領を手に入れたが、その一つ田辺島が空いておる。そこへ入ってはくれぬか。」
と、国親は打診した。
田辺島は国分川を挟んで布師田の対岸に浮かぶ島である。
辺りは湿地で潮が引くと大津と陸続きになるが、到底足で進めるようなところではない。
その上、本山氏との最前線にある。
国親もまた、儀実の器量を見込んで頼んでいるのである。
「帰参したばかりの某に、何と勿体ないお言葉にございましょう。」
「気にいたすな。いずれあの地は本山打倒の要となろう。決して安心できるようなところではないが、そなたの家は代々武勇をもって我が家に仕え、守役も務めて参った名家。むしろ、難儀と思うて頼んでおるのじゃ。」
「しからば承知つかまつった。」
儀実はすぐに田辺島に移り、島の高所に砦を築いた。
目と鼻の先には、対岸の布師田金山城がよく見える。
これで、石谷重信は城から一歩も出られなくなってしまったのである。
国親は西の守りを固めると、再び視線を南に向けた。
南には荒涼と広がる香長平野がある。
これを誰よりも早く手に入れねばならぬ。
本山茂宗は土佐、吾川二郡を押さえて一万数千貫。
一条房基は幡多、高岡二郡に伊予南部を切り取り、おおよそ三万貫。
三千数百貫の国親が生き残るためには、香長平定は必至なのである。

天17章 野の虎 (その八) [天海山河]

さて、大津城が落ちた上に国親を捕り逃した横山道範は、反って国親の標的の矢面に立たされることとなった。
着々と国親が横山討伐の準備を進める最中、坂折山の敗戦で横山方は多くの重臣を討ち取られ、到底抗う気力は残っていない。
道範は嫡子菊鶴丸を人質に出して降参を願い出た。
この事に怒りを露にしたのが、下田頼晴であった。
「横山がこれ程の臆病者とは知らなんだ。この上は我一人とも、この城を枕にして討ち死にすべし。皮籠童の下になどなるものぞ。」
と、罵った。
その噂はすぐに国親の耳に入った。
「家を守らんがため降を乞うこと健気なれ。また、身を匹夫にやつすも斯くあらん。されどその身を心得ずして、嘯くは愚かなり。憎き下田の雑言よ。すぐさま攻めよ。」
と、久武則義、福留儀実を大将に総勢八百余騎を擁して岡豊を発した。
後詰二百五十騎の大将、福留儀実は帰参後初めての戦となる。
ー格別なるお取り計らい。必ずや功を立て、殿にご奉仕致さん。ー
と、肝に銘じて、出陣するところ、大手の門で一人の老婆が若い兵卒の袖にしがみつき、何やら訴えている。
「一体どうしたというのじゃ。」
と、儀実は老婆に訊ねた。
老婆は兵卒の袖を振りほどき、儀実の方を振り返った。
その顔つきは悲痛な叫びを漂わせ、とても尋常なものではない。
「わらわは下田村の百姓の妻にございます。どうかお聞き届け頂きたき儀がござりまして、参り候。」
と、老婆は土下座した。
ーまさか出陣を止めよと言うのではないな。ー
と、儀実は思った。
しかし、身を震わし、小さな身体一つで敵陣に願い出るなど、それ相当の覚悟である。
儀実は、
「ひとまず、訳を聞こう。 」
と、訊ねた。
老婆は、
「我が夫は既に亡くなり、一子常陸を頼みに暮らしておりましたが、下田は年貢厳しく、去年の秋、年貢が遅れた科により、是非もなく殺され候。縁者に扶助され今まで生き永らえておりましたところ、こたび岡豊様が下田に出向とお聞き致し、こちらへ参ったのでござります。」
と、言った。
「なるほど、それは難儀であったな。されどそなたほどの体にては戦場にて煮炊きの用すら立つまい。そなたの意はこの飛騨が存じた。今日は家に戻り、吉報を待て。」
と、儀実は涙をながし、老婆を諭した。
すると、老婆は、
「仰せごもっともにござりまするが、わらわが参ったのは、岡豊の方々は皆若くまた、他方の生まれと聞き及びまする。しからば下田は不案内と存じ候。わらわは下田の者なれば城にも精通しておりまする。されば自ら城の中へ手引き致すこともできましょう。」
と、言った。
儀実は、
ー確かに。ー
と、思った。
この城の門番ですら、譜代の臣である福留の名を知らぬ。まして、他人の所領のことなど知るよしもない。
「相分かった。殿にこのことお伝え致そう。」
と、儀実は踵を返して城の中に戻ると、国親に伝えた。
国親は、
「これはよき味方を得たな。よし、その者に供を三人付けて蛸ノ森へ向かわせよ。」
と、命じた。
老婆はお供三人を引き連れて、下田の城へと向かった。

天17章 野の虎 (その九) [天海山河]

岡豊方の動きを察していた下田頼晴は城のまわりに逆茂木、深堀をこしらえて待ち構えていた。
「待て、そこの者。」
門番が荷車を曳く老婆と三人の下男を呼び止めた。
「荷を改める。先ずは名を名乗れ。」
と、門番が老婆に近付いた。
老婆は狼狽える様子もなく、
「これはお勤めご苦労さまでござりまする。我らは衣笠村の者にござりまする。こたび戦と聞き及び、一家総出で罷り越しました。それがしは御台所様のお言いつけにて、兵糧を持参致し申した。」
と、荷車から袋を取り出して門番に差し出した。
門番はそれを改めると、
「よし、通れ。」
と、十分な取り調べもせずに老婆らを通した。

その頃、城の北、半里ほど離れた衣笠村の山陰に福留儀実ら二百五十騎が身を潜めていた。
「飛騨殿、彼の者らは上手く入れたであろうか。」
と、熊谷源助という男が言った。
源助は福留家の居候で、まだ功もなく無禄であるが槍の腕前は大したものである。
「さてな。上手くいっておればそろそろであるが…。」
と、儀実は蛸ノ森城を仰ぎ見た。
すると、西の郭の辺りからかすかに煙が立ち上っている。
「煮煙か。」
儀実は目を凝らした。
煙は次第に大きくなり、黒い帆柱となって蒼天を焦がし始めた。
「源助、行くぞ。」
儀実は源助に声を掛けると、馬に飛び乗り駆け出した。
「合点承知。」
源助も後を追った。

蛸ノ森城では、上を下への大騒動である。
「火を防げ、財宝を出せ。」
と、怒声が響き渡る。
火は西風に煽られて、塀、門を焼き、櫓へと燃え移った。
「この煙は何事か。」
下田頼晴は庭に出て、下人を掴まえて訊ねた。
「台所から失火したようにござりまする。」
と、下人は答えた。
「左様か。ならば早う消せ。」
と、命じたときである。
カン、カン、カン。と、鐘の音が城下に鳴り響いた。
「殿、敵がせめて参りましたぞ。」
と、雑兵が駆け込んできた。
「何。こしゃくな国親め。このような時にせめて参ったか。」
と、頼晴はすぐさま槍をとり、煙のなかをくぐり抜けると、大手に群がる岡豊の兵を見て、
「これは下田駿河なり。」
と、一声して、敵のど真ん中に打ってかかった。
さすがは数度の高名に預かる武士である。
あっという間に七八騎を突き伏せ、十四五人を手負わせて、雄叫びを上げた。
その凄まじさに、岡豊の兵は肝を潰し、後退りした。
頼晴はそばの岩に腰を掛けて息継ぎしていると、背後から黒縅の鎧を着た大男が大太刀を命一杯振り下ろした。
「おっと。」
と、間一髪、頼晴は飛び退いて、刃をかわし、
「姑息な奴よな。さてはこの煙も国親が手の者の仕業か。」
と、太刀を構えた。
大男は再び力まかせに二の手を振り下ろした。
頼晴はそれを太刀で受け止め、ギリギリと鎬を居削りながら大男の懐に入ると、
「えい。」
と、脇腹に一太刀入れた。
札を切る鈍い音とともに、
「ぐは。」
と、大男は声をあげて、その場に片膝を着いた。
「仕損じたか。」
頼晴が振り返ると、大男は大太刀を杖に起き上がり、大きく振りかぶって振り下ろした。
頼晴はさっと大男の右脇に回り込み、首に手を掛けて絞め殺そうとするところ、背から胸板に向かって激痛が走った。
見れば胸のところから血が吹き出ている。
流れ矢が背から胸を射抜いたのである。
「さては胸を射抜かれたか。」
頼晴は最期を悟り、
「今はこれ迄なり。最期の供をせよ。」
と、大男を引きずり門櫓の火の中に飛び込んだ。
頼晴の遺骸は跡形もなく燃え尽きて、墓も今日に伝わっていない。

また、頼晴には七郎右衛門という弟がいた。
七郎右衛門も名うての剣の使い手であったが、城が焼け落ちるに至り、兄の行方も知らず、一先ず城を落ちようと、西の峰伝いに十市を目指したところ、追手がかかった。
七郎右衛門は城より半里離れたおき岩という大岩に身を隠していると、追手が、
「気を付けろ、あの岩陰に隠れたぞ。逃すな。討ち取れ。」
と、廻りを取り囲んで、にじり寄ってきた。
七郎右衛門は岩の上に駆け上がり、
「わしがここまで来るを逃げて参ったと思うたか。兄の行方を尋ねて参ったのじゃ。手並みのほどを見せてやろう。」
と、尋常の者では担げないほどの大石を持ち上げると、真っ先に駆け寄せた追手に打ち付けて、あっという間に二三人を殺してしまった。
追手は慌てて逃げ出し、遠巻きに矢をつるべ打ちし、七郎右衛門の脛、肘を打ち抜いた。
さすがの七郎右衛門 も、大石を手放すと、
「今はこれまで。」
と、腰の刀を抜いて、自らの首を掻き切った。
遺骸は首を落として、その場に仁王立ちしたという。

蛸ノ森の悲劇を後に郷民が斯くも詠んだ。

いでもせで焼き崩したる蛸魚の森 いかなる人の料理なるらん
(岡豊方はろくな戦もせずに蛸ノ森を焼き崩した。いったい誰の仕業であろうか。)


天17章 野の虎 (その十) [天海山河]

吉田備中守周孝は朗報を携えて国親のもとを訪れた。
「国親殿、石谷民部少輔殿のほか、一宮高賀茂の永吉飛騨ら神職七十五名が降を願い出ましたぞ。」
「下田駿河の討ち死を聞いて震え上がったのであろう。」
と、国親は打ち笑った。
「左様でございましょうな。して如何なさるおつもりか。」
「石谷めは逆らったこともある。城の明け渡し、知行三千石を没して出家させよう。他の者は高賀茂の神職ならば、かくたる知行もあるまい。しかし、これより高賀茂の奉行はこの国親が預かろう。」
「なるほど、それがよろしかろう。ところで、これは某の思い付きでござるが、石谷殿に公文将監の降伏を勧める使者となされ、その甲斐あらば一千石を与えては如何か。公文は大忍庄徳善の者なれば、後々我らの道案内の先手となりましょう。彼の者は猪突の士、争えばこちらにも痛手がございましょう。」
「よし、左様致そう。新右衛門、新右衛門。」
と、国親は昇田新右衛門を呼んだ。
「殿、お呼びでございましょうか。」
「新右衛門、布師田に出向いて、石谷民部少輔に斯々然々伝えよ。」
「はっ、すぐに罷り越して参りまする。」
と、新右衛門はその場を辞した。

石谷民部少輔重信は城を明け渡すと、高賀茂神社の境内の内に住んで入道し、名も執行宗卜(しゅぎょうそうぼく)と改めた。後に公文将監重忠の降伏もあり、千石を与えられた。
また、公文重忠はその武勇を国親に気に入られ、岡豊城下に屋敷を与えられた。この子孫から教育者公文公が現れた。

さて、この瞬く間の侵攻に疑念を抱いた男が居た。
「よもや国親殿は我が領を窺おうとしているのではあるまいな。」
と、本山左近大夫茂宗は怪しんだ。
「問いただしては如何でございましょう。」
と、長越前が言った。
「そうじゃな。今後の憂えともならん。もしもその意があらば、すぐにでも攻め滅ぼさねばならぬ。越前よ、験して参れ。」
「御意に。」
と、越前は岡豊に向かった。
国親はこの招かざる客を城の広間に出迎えた。
「長殿、これはお久しゅうござります。」
と、国親は慇懃に挨拶した。
「岡豊殿も恙無く、何より。」
と、越前は返答した。
「して、こたびは。」
と、国親が訊ねた。
「いやな、我が殿がこたびの貴殿の戦勝祝にと、自らの太刀をお贈りなされた。」
と、越前は太刀を国親に渡した。
「これは勿体ないご配慮。国親、慎んでお受け申し上げ奉る。」
「殿もお慶びになろう。さて、」
と、越前は立ち上がり、岡豊城下を見渡した。
地の端までだだっ広い平野が続いている。
「岡豊殿。こたびの戦で貴殿の所領は何処までになったか。」
と、訊ねた。
国親はおもむろに指を指した。
「あの山辺りまでにござりまする。」
「ほうこれは広い。殿と肩を並べるほどじゃ。よもや…。」
と、越前は国親の顔を窺った。
「よもやとは。」
と、国親はすっとぼけた。
「いや、ただな、我が殿と貴殿とは昔のこともある。」
「ははは、越前殿。左様なことなど思いもよりませぬ。むしろ、大津を始め、多くの諸将は一条に靡びいておりまする。背後の憂えを断たんと思ったまでのことにござりまする。」
「左様であるか。」
「左様でござりまする。もしお疑いであれば、吸江庵の奉行を本山殿にご寄進致しまする。」
吸江庵の奉行が手に入れば、大きな利益をもたらす。しかし、本山には大身の自負がある。目下の長宗我部に譲られては面子が立たぬ。
「いや、それには及ばぬ。ところで近々若殿が森山を攻められる。森山は一条方。それに貴殿と若殿は舅と婿の仲。少し援軍を寄越してはくれぬか。」
「承知致し候。」
「それは良かった。では、これにて。」
と、越前は岡豊を後にした。

「やれやれ、我らの兵を使って吾川を平定しようというつもりじゃな。」
と、奥の間でそば耳を立てていた周孝が現れた。
「どうやらそのようじゃな。」
「国親殿、某にお任せあれ。一策献じましょう。」
と、周孝は筆を執り、家人に持たせて森山城へと向かわせた。

後日、周孝は三百の兵を従えて、吉良峰城へと向かうと、本山式部少輔茂辰に面会した。
「吉良殿にはご機嫌麗しゅう存じ奉り候。」
「備中殿。久しいな。恙無く何より。こたび、先陣を願い出られるとは誠に殊勝なるご意志かな。森山は難攻不落。くれぐれも気を付けられよ。」
「仰せ、有り難き幸せ。すぐさま森山の城を吉良殿にご献上致しましょう。」
「これは頼もしきことかな。朗報を待っておるぞ。」
と、茂辰は周孝を送り出した。
周孝はその日のうちに森山城を落とし、茂辰を喜ばした。
「あれほどの要害を一日のうち攻略するとは見事。さすがは備中殿。」
「吉良殿のご威光があればこそ。某の力ではござりませぬ。」
と、周孝は言うと、大盃を飲み干し、吉良峰を後にした。

「して、如何して森山を落としたのじゃ。」
と、岡豊で待っていた国親が訊ねた。
「我らには亡き吉良殿のご子息殿がござりまする。森山殿は吉良のご親門。ご子息をもってお家再興を約し、偽りの戦をして、城の明け渡しを願ったのでござりまする。」
「なるほど。」
「また一条殿に目を付けられますな。」
「仕方あるまい。」
と、国親は肴を口の中に放り込んだ。

天17章 野の虎 (その十一) [天海山河]

年も明けた天文十八(1549)年四月十一日のこと、一条房基が突如として自害した。
「国親殿、一条殿が自害なされたそうじゃ。」
周孝は土佐の津々浦々に忍ばせた間者より、誰よりも早くその事を察知した。
「そうか…。」
国親は複雑な思いである。
一条家は国親にとって恩義のある家である。しかし、乱世において乱麻の如く絡み合う交誼の糸は、時として断たざるを得ない。
「かつて土佐は一条殿のご威光で他国にはない平穏な地であった。それがいつの間にかその威光だけでは治まらなくなった。わしも平穏を乱す一人。きっと大津、森山のことで若き御所殿は気を病まれたのやも知れぬな。」
と、国親は呟いた。
「国親殿、一国を治むるにはその器が要りまする。時代の流れもござれば、房基卿にはその器が足りなかったのでござる。まさに諸行無常は世の例、新たなる土佐の覇者を求める時がやって来たのでござる。」
と、周孝は述べた。
「そうじゃな。時を緩めては居られぬな。」
「左様、山田は既に久保郷を手に入れ、大忍庄の大半を治めて五千貫に迫る勢い。我らも早よう郡南を平定し、亡き御父君の仇を討たねばなりますまい。」
長岡郡の南端には守護代細川氏の分家である十市備前守定輔がいる。
定輔は所領一千貫と決して大身ではないが、郡南には与力する地侍も多く、一条氏や香宗我部氏との誼もある。
「細川殿か。」
「かつての主筋とはいえ、今は力ある者が治めねば何事も収まりませぬ。」
「しかし、力攻めしては後々敵を増やし兼ねぬな。」
「その事においては、こちらより誼を使わしては如何か。」
「誼。」
「幸い、細川殿は子、孫が多く、これに貴殿のお子の何れかをめあわせてはどうか。」
と、周孝は言った。
定輔には嫡男備前守頼重、池氏を継ぐ次男豊前守頼定、三男に細川弥四郎、四男に佐井掃部助正頼と男児に恵まれている。
「池豊前守殿には先頃、男児も産まれたとか。」
国親にもちょうど姫子が産まれたばかりである。
「頃合いがよいな。」
「では、この儀、細川殿に薦めてみましょう。」
周孝は使者に立って、十市栗山城へ出向いた。
無論、定輔は これが事実上の降伏勧告であることは見抜いていた。
「吉田殿。遥々ご足労であったな。この儀、誠によき申し出であるが、子、孫のことであれば、しばらく熟慮する猶予を頂きたいと岡豊殿に伝えてくれ。」
と、定輔は応えた。
「無論、承知にござるまする。ではご暇致す。」
と、周孝は岡豊へと戻っていった。

さて、定輔は早速家臣らと評議した。
「皆々、こたびの儀、如何か。ためらうことなく思いのまま申せ。」
と、定輔は訊ねた。
「長宗我部は大津、下田を討ち取り、その勢い強く、これに挑むは蟷螂が車を遮るに等しいと存ずる。ここは家名を保たんがため、申し出を受けられるが得策と存じ奉る。」
と、家臣一同に答えた。
「とにもかくにも方々の申す通りじゃな。この事、頼定にも伝えよ。」
と、定輔は池頼定に使者を使わした。
ところが 、
「先年、御当家の与党、下田を討ったこと、並びにこの十市、池には殿を頼って落ちてこられた者も多く、国親を許しては他の者に示しがつかぬと存ずる。」
と、池氏の重臣岩松七郎経重が猛然と抗議した。
「しかし、岩松殿。もはや長宗我部に抗するには無理がある。幕下に加わるが常策ぞ。」
と、家臣の一人がなだめた。
「これは異なこと申すものよ。敵を見て逃げることさえ恥辱というに、これでは聞き逃げに等しい。敵の旗を見ずして降参とは、この経重にはあるまじきこと。このまま降参とあるならば、某は一人暇を願い、国親と一戦交え、討ち死に致さん。」
と、人前憚らず言い放った。
それを聞いて、池頼定はぐうの音もでず、
「この儀、重ねて談義致す。」
と、応えただけであった。

「国親殿、十市が一族は、こたびの儀に応じませぬな。」
と、周孝がいった。
「かくなる上は力攻め致すか。」
「仕方ありませぬな。」
国親と周孝は顔を見合わせた。
そこへ、
「殿、お呼びでございましょうか。」
と、中島大和守親吉が現れた。
中島家は長宗我部氏の分家で、六代満幸の三男俊高が岡豊城下の中島村に住んだことから、その地名をとって苗字とした。
「よく来た親吉、そなたは二十歳にもなる。江村と並ぶ秦門の要ならば、今日より軍議に加わってもらいたい。」
「親吉、有り難き幸せ。このこと後代まで伝え聞かせましょう。」
「他愛のないことじゃ。そなたの武勇並びに知恵は聞き及んでおる。」
と、国親は言った。
「ところで中島殿、こたびの十市のこと、如何に思われる。」
と、周孝が訊ねた。
親吉は進み出て、
「池の家老、岩松七郎なる者、勇猛にして知恵深く、また人望に優れると聞きまする。彼一人を討ち取らんと思えば、あまたの人を失うことになりましょう。」
と、述べた。
「なるほど。それは厄介じゃのう。」
「されど、この親吉に愚案がござりまする。」
と、親吉は謙遜した。
「愚案か。申してみよ。」
と、国親が催促した。
「池には池万五郎と申す、本血筋の門葉の者がござります。」
「確か、池は細川殿の子が養子となって継いだのであったな。」
と、周孝が言った。
「左様、今は家臣でございまするが、池の継承者であることは間違いござりませぬ。それ故、心に一物あって、不平を漏らしておるとか。知恵浅く、欲深き者なれば、甘言をもって当方へ引き入れ、七郎を討たせてはいかがにございましょう。」
と、親吉は献策した。
「どうかな、周孝殿。」
と、国親が訊ねた。
「よき策と存ずる。」
「よし、このことそなたに任せる。謀れ。」
と、国親は親吉に命じた。


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