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天17章 野の虎 (その一) [天海山河]

 一条氏の蓮池攻略は土佐の国人衆の情勢を一変させた。
 安芸山城守元泰は土佐中原への進出を目論み、嫡子国虎と房基の娘、於峰との婚姻を求めた。
 当分の間伊予に出兵せねばならぬ房基は、背後の本山茂宗を牽制するために、この申し出を快諾した。
 さらに、吉良氏の旧臣秋山刑部丞など吾川郡の諸士も勢い付き、反本山氏を形成して行ったのである。
 
「さて、そろそろか・・・。」
 冴えぬ風体の五十路男が西方の峰を仰ぎ見た。
 そこは天竺氏が拠る大津の城山であった。
 城は浦戸湾に突き出た半島の尾根にあり、三方を海に囲まれ、陸と繋がる東面は断崖絶壁のうえ、滾々と湧き出る的ヶ池に、その行く手を阻まれている。城の大手はその池のほとりに架けられた一本の橋のみである。
 まさにその天然の要害を見て、男は腹の底から笑いがこみ上げてきた。
「かの難攻不落振りを見て、笑いを収められずにいられようか。」
 周孝にはその有様が反って敵を恐れているように思えた。

 先年、まだ一条氏と津野氏が戦っていた頃の話である。
 
 天文十三年(1544年)二月五日の夜、灯篭の油も切れ、誰もがすっかり寝入った頃、突如として、
「ドッスーン。」
 と、岡豊城内に地響きが轟き、梢に宿を求めた鳥も流石に肝を潰して、わっと夜空へ舞い上がった。
「何事じゃ。」
 国親は枕を反して飛び起き、太刀を手にした。
 すると、宿直(とのい)の者が灯を携えて現われた。
 国親はその者に調べに行かすと、しばらくして戻ってきて、
「殿、ご心配には及びませぬ。二の段の大楠が倒れたようにござりまする。」
 と、告げた。
「なんと、あの大楠が倒れたと申すか。」
「はい、幹の中ほどよりばったりと。」
 国親は一度手の汗を拭い、
「では、見聞いたそう。案内せよ。」
 と、宿直の者を具して二の段へ向かった。
 その巨木は長年城を見守ってきた神木とも言うべき楠で、この城のシンボルであった。
 見てみると、宿直の者が言ったとおり、幹の中央から二つ折れて、地面に横たわっていた。
 国親はふいに不安に襲われ、
「この楠は代々我が城の守り神と伝わる。それが今宵の如き風もない夜半に倒れるとは、何やら良からぬ事の前触れではないか。すぐに算卦(さんがけ)師を呼べ。」
 と、家臣に命じた。
 ちょうどその頃、赤岡村に芦田主馬太夫という天文卜筮(てんもんぼくぜい)*に長けた者がいた。
 赤岡村は香宗我部氏の所領であったが、当時、香宗我部領はたびたび安芸元泰の侵攻に脅かされ、周孝が香宗我部氏家臣の村田八郎左衛門に援軍を送っていたばかりか、昨年の暮れには国親が感状を与えて二貫文の扶持米を毎年送るという約束までしていた経緯があった。
 国親は早速、村田八郎左衛門を介して芦田主馬太夫を呼び寄せた。
 
 芦田主馬太夫の占いは筮竹という竹で出来た細い棒を用いていた。
 主馬太夫は話を聞くと、
「このたびのこと、筮竹を取るに及びませぬ。」
 と、答えた。
「それは如何なることか。」
 国親はすかさず聞き返した。
 主馬太夫は衿を正し、
「畏れながら、これはご当家の興隆の奇瑞にございます。その故はその文字のあり。楠は木に南と書きまする。木は東を表しますれば、東と南が滅ぶ瑞相にござりまする。今は春の半ばにござりますれば、東と南に勢いがあるべきところ、その両方が倒れることは、これ天の与えたもう時節の到来にござりまする。御前にとりますればまさに秋節来たり、殺伐の気を得て、西、北よりこれを討ち給えば、敵は木の葉の如く散りうせましょう。」
 と、答えた。
 国親は大きく頷いた。
「貴殿の申すこと天晴れである。褒美を取らせる。」
 と、主馬太夫に鳥目(ちょうもく)*を取らせて、赤岡村へと帰した。
 その後、芦田主馬太夫は土佐随一の卦の者と呼ばれ、多くの弟子を取り、その一派は『いざなぎ流』と呼ばれて、代々その妙技を伝えた。
 そして、子弟たちは芦田主馬太夫の名を取って、太夫を名乗り、民衆から「たゆうさん」と呼ばれるようななった。今日でもそれを伝える者が土佐の高知にいる。


*天文卜筮:天文は太陽や月、星の運行から吉凶を占い、卜筮は筮竹を用いて占うため、総じてその流儀の占い師、陰陽師。
*鳥目:金子のこと。特に鳥目金を指す。砂金を固めた粒状のもので、鳥の目に似ていることから。

天17章 野の虎(その二) [天海山河]

 国親の興奮覚めやらぬところへ、話を聞きつけた周孝がやってきた。
「お聞きしましたぞ、国親殿。」
「もう周孝殿の耳に入ったか。」
 と、国親は驚きをあらわにした。
「ええ、城下はうわさで持ちきりでございますとも。」
 と、周孝は大袈裟に言った。
 国親はふと疑心暗鬼した。
「まことに時節の到来であろうか。」
 そのことばに周孝は頷いた。
「まさに今こそが御家興隆の時でござりますとも。芦田なる者の卦を聞き及ぶに、天道の理を説いておりまする。御家にとって南は宿世の怨敵天竺にござりまする。今、一条殿は津野並びに伊予へと兵を進めておりますれば、この大津へは兵をよこすことはできますまい。大津ならば我が兵でも十分に勝てましょう。その余勢を得て、この香長を併呑し、仇敵山田、本山を討ち滅ぼすが上策と存ず。この時を置いて他にござりませぬ。」
 と、周孝は力強く答えた。
「確かに、周孝殿が申す通りじゃ。こたびのこと、神意に間違いあるまい。周孝殿、戦支度じゃ。」
「御意に。」
 周孝はほくそ笑んだ。
「そうじゃ、その前にこの奇瑞は八幡大菩薩のお告げに相違ない。吉日を選び、八幡宮にて臨時の祭礼を執り行おう。」
 と、国親は言った。
「それはまことに良きお考えにござる。」
 と、周孝はその場を辞した。
 その帰り道、周孝は、
「ふむ・・・良き考えじゃな・・・。少々大袈裟に言いすぎたこともある・・・。」
 と、ぶつぶつ言いながら、村はずれのひなびた館へと帰って行った。

 ある日、国親のお触れのもと、城北の丘に立つ岡豊八幡宮にて祭礼が執り行われた。
 八幡宮には村中の貴賎老若男女が馳せ集い、境内は人で満ち溢れ、参道にまで列をなしていた。
 その中を国親は一家眷族を伴ってやってきた。
 眷族の中には周孝の顔もある。
 そのすぐ後を弟の備後守重俊が続いていたが、ふと、周孝の足取りがいつもより軽やかな気がした。
 周孝はいつ何時も思慮に耽る癖がある。そのためいつもは足元がふらふらと覚束ないのだ。
「兄じゃ。今日はいつもにもなく機嫌が良いようじゃのう。」
 と、重俊は嫌みを言った。
 しかし、周孝はそんなことなど意にかえさず、
「そうか重俊。そう見えるか。」
 と、答えただけで、鼻歌を歌いながら急な石段を昇って行った。
「さては兄じゃ、ワライダケでも食ったのではないか。」
 と、重俊は首をかしげた。

 さて、そんなことは兎も角、拝殿に着いた国親は玉串奉奠(たまぐしほうでん)を終えると、神楽を奉納した。
 八人の美しい八乙女に、五人の風貌優れた神楽男がお囃子に合わせて舞い踊った。
 その最中、年頃にして十二、三ほどの童が人ごみからするりと躍り出て、飛ぶともなく走るともなく、社壇の階に駆け上がり、供えてあった幣(ぬさ)を手にとって、
「我は正八幡大菩薩なり。」
 と、一声を上げた。
 国親は目を見張った。
 すると、童は国親を指して、
「我をこの地に勧請して、上下渇仰の運びをなすこと、悦びに堪えたり。我もまたそなたらを守らん。わけても、国親、父の仇を討って、かの鬱憤を晴らさんと思い、日夜滅私奉公に励むこと、まことに不憫なり。されど、前世の因果を離れること叶わず、徳を積むこと幾歳月か。今既に家を興すべき時節到来なり。我このたびその奇瑞を楠に顕し、国親その理を察し、臨時の祭りをなして我を清しめること、神慮に叶えり。急ぎ南方より始めて、四方へ馬を出すべし。我その前後に付き添い、力を加えるべし。見ておれ、そなたが向かうところ従わぬことろなく、攻めるところ落ちぬところなし。行く末もなお守るべし。頼もしく思うべし。」
 と、いうと、四方を見回し、ひらりと階から庭に飛び降りて、その場に倒れこんでしまった。
 誰もが、固唾を呑んで見守っていると、しばらくして童は起き上がり、辺りをちらちらと見回した。
 童は一体どうしてここに倒れていたのか分からぬ様子であった。
「おい、ぼうず、気が付いたか。」
 と、群衆の中から一人の男が声を掛けた。
 童が頷くと、
「わっ。」
 と、群衆から一斉に声が上がった。
「これは真に八幡大菩薩様の奇瑞ぞ。秦家の興隆ぞ。岡豊の繁栄ぞ。片時(へんし)も南を攻めるべし。」
 群衆はどよめき、色めき勇んで帰って行った。
 興奮の最中、一人、いや、二人、冷静な面持ちでこの様子を見ていた者がいた。
 周孝と重俊である。
 重俊は、はじめいったい何が起こっているのか分からなかったが、ふと周孝の上機嫌を思い出して、はたと周孝の横顔を窺った。
 すると周孝は口元をぴくぴくと震わせていた。
 それで察しがついた。
 周孝は事が上手くいっているときには唇を小刻みに動かす癖がある。それは弟である重俊だけが知る周孝の癖であった。
―さては兄じゃ一人の謀りであったか。―
 さすがの重俊もこのやりすぎる兄に少々心配になった。
「兄じゃ。」
 重俊は周孝に声を掛けた。
 周孝は一瞥すると、ぷいとそっぽを向いた。
 重俊の言いたいことがよく分かるからこそである。
 
 重俊の心配したとおり、その夜、密かに周孝は国親に呼ばれた。
 国親は周孝を見るなり、にやにやと笑った。
 周孝もにやにやと返した。
 二人は酒を酌み交わしながら、立待月を眺めた。
「少々やり過ぎではないか。」
 と、国親が言った。
「左様でございましたな。されど、この世は道化者が多いものでございます。」
「道化か。」
「左様。シバテンなど。」
「シバテンか。では相撲でも取るか。周孝殿。」
「お戯れを。某はもう五十の年寄りでござる。シバテンの如くは参りませぬ。」
「そうであったな。シバテンは童でなければならぬ。して、あの童は相撲好きか。」
「ええ、シバテンにござりますから。」
「そうか、ではどこに居る。」
「はて、分かりませぬ。シバテンならば川の淵かもしれませぬな。」


天17章 野の虎 (その三) [天海山河]

岡豊八幡の神託の噂は郡南の村々に知れ渡り、国人衆は震え上がった。
殊に天竺孫十郎花氏は下田駿河守、横山左京亮らと手を結び、城に逆茂木を張り巡らせて、敵が来るのを待ち構えた。

天文十六(1547)年2月5日、国親は万を辞して、久武肥後守則武、吉田備後守重俊、中島大和守親吉を先手に、八百余騎を引き連れて、岡豊を出立した。
無論、目指すは大津である。
大津城は東に的ヶ池、西に岩崎、鹿児崎という入江、南は大きな岩が転がる峰と堅固な守りを持つ。さらに、的ヶ池から流れ出る舟引川は城の北崖を掠めるように流れ、淵は深く、到底、泳いでは渡れない。
大手口はその川に架けられた一本の橋で、陸から伸びた細長い土手と繋がっている。
そして、土手の下は広野と呼ばれる沢田が広がる湿地で、それが対岸の布師田辺りまで続いている。
大津方はこの土手の上に三段構えの陣を張り、曽我、井上、坂本ら屈強の兵二百五十騎を置き、城の東北に射手百騎を配置した。
周孝が国親に合図した。
「どうどうどう、皆止まれ。」
国親は馬の手綱を引き、城の東北辺りで進軍を止めた。
この辺りは射手の矢が届くところではない。
すると、先頭にいた久武則武が駆けつけて来た。
「殿、全軍は士気高く、向こうに見える敵を前に、今か今かと殿のお下知を待っております。」
と、指示を仰いだ。
傍らにいた周孝は、
「久武殿、そう早まれますな。あれは囮じゃ。この土手をそのまま進めば我らは敵の格好の的でござる。」
と、諭した。
「しかし、これでは城に入れませぬぞ。」
「先ずはこの左手にある小山より木を伐り出し、沢田を渡る橋を架けましょう。さすれば土手を盾にしてあれに攻め寄せられまする。」
「されど備中殿、それでは敵の方が土手の上にあり有利ではござらぬか。」
「我らにも射手はござる。一町足らずの間ならば届きましょう。」
と、言った。
「どうやら、軍議は決したようじゃな。」
国親はそう言うと、郎等に木を伐らせ、射手を陣の先に置くと、
「射て。」
と、命じた。
思わぬ攻勢に、大津方は浮き足立った。
「それ今じゃ、木を倒せ、枝を敷け、そこにある葦でも草でもよい。何でも敷き詰め、馬を通せ。」
と、則武は声を荒げ、草木をぬかるみに敷き詰めると、
「某は、長宗我部が家臣久武肥後守じゃ。この度先陣を賜り申す。」
と、名乗りを上げて駆け出した。
これに吉田重俊も続き、両軍は上下入り乱れて干戈交わした。
大津方は地の利をいかし、攻め来る岡豊方を何度も押し返したが、多勢に無勢、一段、また一段と崩されて、坂本、長崎ら頼みきったる強者を討たれて、逃げ出した。
しかし、城へ入るにはあの一本の橋しかない。
そこへ大津方の兵が殺到し、岡豊方は逃すまいと後を追って駆け付けて、再び斬り合う格好となった。
運良く城に入れた者は良かったが、逃げ遅れて敵に背中を斬られる者、背水の陣を覚悟して切り結ぶ者、首に刃を立てられて敵共々堀に落ちて沈む者、まさに辺りは阿鼻叫喚の巷と化した。

これを城より見ていた花氏は、目論見が外れて、地団駄した。
「おのれ、皮籠童め、いや、さてはあの黒坊主の仕業か。すぐに大手へ射手を回せ。」
と言うと、花氏は自ら太刀を取り、駆け出して行った。
この間、周孝はずっと城の様子を窺っていた。
「新右衛門殿、貴殿にたってのお願いがある。」
「何にございましょう。」
「どうやら敵は城の大手に殺到したようじゃ。裏手は手薄であろう。貴殿は脚が達者じゃ。少々難儀ではあるが、あの岩山を越え、裏手を攻め立てたくれぬか。このままではこちらにも多くの犠牲が出るでな。」
「承知つかまつった。」
と、昇田新右衛門は手勢を率いて駆け出していった。