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天16章 亡城(その八) [天海山河]

 姫野々郷の奥、布施坂という難所を登りきったところに船戸という集落がある。
 この辺りは梼原郷の中にあり、西日本一の長河、渡川もこの村の北に聳える不入山の一滴より始まる。
 殊に冬は厳しく、不入山から颪が吹き込み、身を切り裂くほどの寒さである。
 さて、この地の領主、船戸半右衛門は聞きしに勝る武勇の士であった。
 大野見城が落ちると聞き、すぐさま郎党六十七名を引き連れて援軍に向かうと、崩れる味方を尻目に奮戦し、殿を務めて津野一門衆を無事に落ち延びさせたのである。
 半右衛門の活躍ぶりは、家忠をして、
「三十貫取りとは思えぬ振る舞いかな。二百貫を取らせても惜しくはあるまい。」
 と、感嘆させるほどであった。 
 家忠は近道である船戸を避け、寺野というところから迂回して貝ノ川郷床鍋より姫野々へと攻め込んだのである。

 姫野々城下には一条勢二千の大軍が二重にも三重にも取り巻き、今か今かとその時を待っている。
 一方、城方は大野見の戦に破れ、頼みの岡本城を落とされ、新土居の木戸をも破られ、もはや落城寸前である。
 津野家筆頭家老の中平豊前守は船戸半右衛門の寄親*であった。
「殿、もはや今しかござりませぬ。一条殿に和議を申し入れなさりませ。これ以上の戦は無用にござりまする。」
 と進言した。
 津野基高は、
「豊前よ。何じょう命を惜しむべきか。ここは一矢報いんがため、打って出て雌雄を決さん。」
 と、単騎であろうとも敵と刃を交わす覚悟であった。
「殿、すでに一矢は半右衛門が報いておりまする。敵の軍門に降るは決して辱にはござりませぬ。むしろ、一時の辱を避け、家を潰せば、それ末代までの恥にござりまする。そもそも、ご当家は日本開闢以来、この地に根を下ろし綿々と家名をつないで来られた土佐の名門。家臣も多ければ、また花開く時もござりましょう。」
 と、基高をなだめた。
 基高はついに膝を屈し、
「和議のこと、そなたにめかせる。」
 と、言うと、家督を孫次郎に譲って隠居した。
 豊前守は主だった重臣らを集めて談義すると、山内雅楽頭を使者に和議を申し入れた。
 家忠は、
「基高殿のご英断まこと殊勝のことなり。山内殿、某とともに御所様に拝謁し、直に和議の段を進めてもらいたい。」
 と、雅楽頭とともに一条房基のもとへと向かった。

 房基はこの時、すでに仁井田郷を後にして、中村御所にあった。
 原因は豊後の守護で、房基の岳父でもある大友義鑑(宗麟の父)の伊予進攻であった。
 大友氏は周防の守護大名大内氏と豊前をめぐって長年争っていた。
 それは海を越えて伊予へ飛び火し、大友氏は伊予大津(大洲)の宇都宮氏と、一方、大内氏は伊予守護職の河野氏と結び付き、互いの背後を撹乱していたのである。
 ところが、先年大内義隆が出雲の尼子晴久を攻めた折に戦に破れ、中国地方の覇権を失ってしまったのである。そのうえ、房基の叔父である大内晴持も陣没してしまったために、土佐一条氏は大内氏との縁が切れてしまった。
 大友義鑑にとって、これほどの好機はない。
 義鑑は房基に娘を娶らせたのである。

 この事態に怒ったのは京の一条房通であった。
 実は、房通は大内義隆とは昵懇の仲であったからだ。
 義隆は大友氏のほか、筑前の守護職少弐氏と博多の利権をめぐって争っていた。
 しかし、大内氏には筑前を支配するための大義名分がない。
 そこで、あることに目を付けた。
 それは、官位であった。
 少弐氏の少弐とは大宰府の官職である大宰少弐によるところから、義隆はそれより高位の大宰大弐という位を朝廷から得るため、猟官活動に熱を入れたのである。
 その窓口となったのが房通であった。
 義隆はその甲斐あってか、天文五年に大宰大弐の位をめでたく手に入れることができたのである。

 さて、天文十二年のこと、房通が慌てて土佐に下向してみたものの、時すでに遅かった。
 その年、房基の嫡男万千代が生まれてしまった。
 その上、房基は伏見宮家の血を引く貴種中の貴種である。土佐の血が濃く流れる房通の言うことなどに耳を貸すような男ではない。
―とんだ甥っこを持ったものだ。―
 と、房通は思ったに違いない。
 加えて、戦となれば、まるで猪武者のように出かけて行く始末で、ろくに御所に居着くことがなかった。
 何より、一条家の者はたとえ土佐にあるとはいえ、みな公家である。甲冑などつけて戦地に赴くなど言語道断である。
 そこで、房通はこのような条件を房基に認めさせた。
『周防との破談、並びに豊後との縁組、これを認める。その代わり嫡子万千代は都にて養育いたすこと。』
 このままでは一条家が武士化してしまうことを恐れての処置であった。
 天文十四年、房通は万千代を伴って土佐を後にした。

 津野基高が降伏したのは翌年の八月のことであった。
 反乱は四年に及んだのである。


*寄親:主。寄親寄子制度のことで重臣などを中間の主とした主従制度。寄子は家臣の家臣ということになる。

天16章 亡城(その九) [天海山河]

 津野一族は土居家忠の取り成しによって、辛くも滅亡を免れたものの、厳しい仕置を受け入れねばならなかった。
 津野基高は梼原郷へ蟄居、嫡子孫次郎は中村へ人質、姫野々の政は中平豊前守をはじめ、高橋、市川ら重臣の合議制とし、一条四家老の一人羽生肥前守の合意を得ることとした。
 さらに、領内の検地も行われ、家臣の仔細までもが一条氏に知られることとなったのである。
「さて、あと一つ。此度の謀反に加担した大平を討て。」
 と、房基は山内雅楽頭を通して中平豊前守に命じた。
 大平氏は津野氏を通して降伏の意を示していたが、房基はこれを認めなかったのである。
 昨日の友は今日の敵。それこそが恭順への証なのである。

 一方、大平氏にとってはとんだとばっちりである。
 伝え聞いた大平元国は急いで城の守りを固め、敵の来襲を待ちうけた。
 しばらくして、福井玄蕃を陣代とした一条、津野二千の軍勢が蓮池城に攻め寄せてきた。
  蓮池城は仁淀川の氾濫によって、至るところに池や沼を作り、守るに易く攻めるに難い城である。
 一条、津野勢がぬかるみに足を取られていると見るや、元国は兵を二つに分け、城を打って出ると、電光石火の如く、敵の首をいくつも討ち取った。
 敗れた一条、津野の軍勢は分が悪いと見て、あわてて戸波城へ逃げ込んだ。 
 折りしも季節は秋雨の降る頃である。
 日が替わる頃に、しとしとと雨が降り始め、次第に風が勢いを増し、雨音は激しくなった。
 三日三晩、雨は降り続けた。
 ようやく降り止み、蓮池に向かうと、一帯は城山を除いて一面の海であった。
 一条、津野勢は城に近付くことが出来ず、またも水が引くまで数日を費やした。
 水が引いたのを見計らって、玄蕃は一気に城を攻め立てた。
 しかし、城から打って出てくる様子がない。
 城に討ち入っていれば、もぬけの殻である。
「さては城抜けか。」
 一条、津野の侍どもは呆気に取られ、
~蓮池の花はいつしか散り果てて 
            みは飛びぬけて行方知れず~
 と、詠んだ。 
 どうやら、ここ数日の雨の間に城方が一人また一人と抜け行き、終には支えきれないと思った城の主までもが城を放棄したのである。
 唄の如く、大平元国の行方はようと知れなかった。
 唯一、元国の嫡子権頭だけが近くの寺で見つかり、玄蕃は哀れに思い、彼を戸波村の積善寺に預けて、捨扶持を与えてやった。
 こうして、大平四千貫の地は一条房基の掌中に握られたのである。
 
 そのころ、房基の姿は土佐の国境を越え、伊予三間表にあった。
 大友義鑑の要請に応えるため、二千の兵を率いて、伊予西園寺氏の諸城を攻め立てていたのである。
 西園寺氏は一条氏と同じ藤原北家の流れを汲む公家領主であったが、河野氏と結んだため、真っ先に義鑑の標的となったのである。 
「御所様、蓮池の件の片が付いたようにござりまする。」
 と、家臣の者が報告した。
「よし、次はこの石城じゃ。城主土居清宗を討ち取れ。」
 と、房基は三間表の要、石城に猛攻を加えた。
 兎にも角にも、房基は東奔西走、土佐一条氏の当主の中で最も戦地に赴いた人物であった。
「ここを抜けば次は西園寺が拠城、松葉山じゃ。」
 房基の意気は上がるが、石城の土居清宗はその戦巧者を見込まれての抜擢である。
 猛攻を凌ぎ、房基は思わぬ反撃を受けて、予土の境まで押し戻された。
 そして、押し合いへし合いを繰り返しながら、天文十五年は暮れて行った。



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