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天23章 漁夫の利(その三) [天海山河]

弘治二(1556)年、覚世は水争いを口実に突如として土佐郡秦泉寺郷へ討ち入った。
秦泉寺城主の吉松(秦泉寺)掃部頭茂景は、あわてて朝倉に援軍を求めたが、義父との争いを憚った本山茂辰は、覚世の行動を不問に付した。
覚世の事前工作が功を奏したのである。
この茂辰の対処に、腸を煮えくりかえしたのは茂景であった。
吉松氏は清和源氏の流れを汲む名門で、かつては土佐吾川両郡にまたがる広い土地を有していたが、今は秦泉寺一帯に限られていた。
誇りを傷つけられた茂景は、
「式部少め、我を外様と侮りおって。おのれ見ておれ、我が手でいずれ滅ぼしてくれよう。」
と、本山茂辰を罵って、覚世に降を願い出た。

「秦泉寺殿は殊勝と見えますな。」
と、周孝は言った。
「丁重に迎えねばな。」
と、覚世は相槌を打った。
「如何にござりましょう。降には証しが要りまするが、秦泉寺殿には優れたる息子がござる。これを人質にというのは、人聞きが悪い。幸い、槍術に長けたる者と聞き及べば、御息男の槍の指南としては。」
と、周孝は提案した。
「なるほど。それならば秦泉寺の気位も保たれよう。」
「武家の棟梁の血は崇めて損はござらぬ。」
「叔父貴(藤原)もわし(秦)も源氏あっての武士じゃからのう。」
「まっこと片身が狭うござりまする。」
長宗我部氏の外交は実におもしろい。
同じ四国の三好氏が有力豪族と婚姻、養子縁組みを結び、主筋の細川、足利を戴いて畿内を席巻したのに対し、長宗我部氏はその例のみならず、殊に源氏の血統との縁組みを大切にした。それは息子の元親にも受け継がれ、吉良、香宗我部、佐竹、池といった源氏の分流を秦門に組み込んでいった。
覚世には引け目があったのかもしれない。無論、ただの田舎大名に留まるのであれば、引け目など感じずともよいのであるが。
「まっこと片身が狭い。」
と、覚世は天高く宙を舞う鷹を見て笑った。

茂景は嫡男豊後守泰惟を岡豊に送った。
泰惟を見た覚世は息を呑んだ。
-一騎当千とはこのことか。-
身の丈は六尺に迫ろうか。大備後や小備後、中島大和守と比しても、勝るとも劣らぬ筋骨隆々の見事な偉丈夫である。
「良うございましたな。組討ち致せば、我が方は十や二十は首が宙を舞っていたやもしれませぬな。」
と、周孝が耳元で囁いた。
覚世は苦笑して、
「十、二十では済むまい。士気次第で百は献上しておったわい。」
と、返した。
「くわばらでござる。」
と、周孝も苦笑いした。
昇田新右衛門は、
「豊後殿、本日より弥三郎様と弥五郎様の槍指南をお頼み致すが、よろしいか。」
と、訊ねた。
泰惟は深々と頭を下げて、
「これは誠に有り難き幸せ。悦んでお請けつかまつらん。」
と、返答した。
「それは良かった。それでは豊後殿、頼み申すぞ。」
と、覚世は泰惟を手厚く迎えた。
これもまた、長宗我部外交の持ち味であった。
一条氏のような他家のみならず、家臣や陪臣への書状に「恐々謹言」と敬意を払っているのである。
どうやら、長宗我部氏は専制君主制というよりも、国一揆の様相を呈していたようである。

数日後、覚世と周孝は石清水(国分)川の土手を歩いていた。
ふと、対岸に目を遣ると、釣人が竿を垂らしていた。
「あれは何を釣っておるのかのう。」
と、覚世が呟いた。
「はてさて、長魚籠(びく)にござるな。鰻ではあるまいか。」
と、周孝は言った。
「なるほど、鰻か。」
と、覚世は久々周孝の達見ぶりに感心した。
「鰻は威勢が良く暴れまわるゆえ、精がつきまする。」
と、周孝は声を弾ませた。
すると、釣人は竿を引き揚げ、獲物の頭が水面に現れると、左右に竿を振った。
「やはり鰻にござるな。」
と、周孝が言った。
「何ゆえすぐに釣り上げぬ。」
と、覚世が訊ねた。
「鰻は宙に出ると、暴れまわって糸を切りまする。あの者はそれを知って、あのように弱らせておるのでござりましょう。」
と、周孝は答えた。
釣人はひとしきり竿を振ると、垂れ延びた鰻を釣り上げた。
「鰻が気の毒じゃのう。」
覚世はあの鰻が本山茂辰に思えた。
「まっことにござる。」
と、周孝は返した。



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