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天22章 国司下向(その三) [天海山河]

越後が雨後森の付城に着いたのは、もう夜半を過ぎた頃であった。
西の方を指していた弓張月もその彼方に隠れ、辺りは虫の声に遮られて、軍馬の嘶きがかすかに響くだけである。
康政が寝所で休んでいると、
「小松谷寺様。」
と、宿直の者が部屋の外から声をかけた。
康政は起き上がり、
「何事か。」
と、返した。
「間崎殿が火急の用にてお目通りを願い出ておられまする。」
と、宿直は答えた。
「間崎殿がか。何ゆえこのような夜更けに参ったのじゃ。」
「畏れながら、間崎殿は子細を申しませぬ。ただ小松谷寺様と土居様に申すとのみ。」
「そうか。余ほどの訳があったのであろう。間崎殿を奥の間に通しておけ。」
と、康政は命じた。

康政と土居家忠が奥の間に行くと、越後が平伏して待っていた。
袴の裾が夜露に濡れたのであろう。膝までたくしあげている。
「越後殿、斯様な夜更けに如何した。」
と、家忠が声をかけた。
「ははあ。畏れながら、御所にて不穏なる噂を耳にし、我が間者に調べさせたところ、斯様なものを手に入れ、一刻もと思い、馳せ参じ候う。」
と、越後は例の書状を取り出し、家忠に渡した。
家忠はそれに目を通すと、
「これは。」
と、声を上げた。
「土居殿、いかがなされた。」
康政が訊ねると、
「康政殿、我らは前後に敵を抱えておるやもしれませぬな。」
と、家忠は書状を康政に手渡した。
康政はじっくりと目を通した。
その内容は俄には信じ難かった。が、さも無きも無しと、康政は思った。
一条房家には家督を継いだ房冬や本家の房通の他に尊快、房忠、教行、兼朝、教快という子がいた。多くは分家して藩屏に列しているか、尊快や教快のように奈良で出家しているのだが、盛岳はその性格ゆえに、仏門にありながら剃髪せず、西小路の館に逗留していた。
「この密書はいつ手に入れた。」
と、康政は越後に訊ねた。
「昨日の朝にございます。」
「場所は。」
「小塚(※1)の渡にて鍋島の間者より手に入れ申した。」
と、越後は答えた。
康政は少し顔を曇らせた。間崎と鍋島の仲が悪いことは周知であった。
むしろ密書が偽りであれば良いと思うのだが、盛岳の自筆であることは明かである。
「して、鍋島の間者は如何した。」
と、康政が訊ねた。
「当方にて処分いたし候う。」
と、越後は答えた。
越後の処置は理にかなっているとはいえ、時が経てば、盛岳方に気付かれる。
「間者が西園寺に至って戻るまで五日、いや三、四日か。」
と、康政は思慮に切迫した。
実は、土佐一条氏には表向き、見えない傷があった。
五十三もの城持ち衆がいる幡多の所領は同じ四国の讃岐の国と同じくらい広く、そのいずれもが一条氏を快く思っているとは限らないのだ。殊に、大潟(※2)の入野氏や宿毛衆を束ねる小島氏は下向した教房の懐柔によって従った経緯があり、もし一条氏に内紛が起これば、すぐに反旗を翻すことは火を見るより明かである。
康政は天を仰ぎ、ふと越後に目を落とした。
越後は生乾きの袴が痒いのか、たくしあげた裾を上げたり下げたりしている。
康政は家忠に振り向き、唐突に訊ねた。
「土居殿、今日は何日であったかな。」
「文月の五日じゃが。」
と、家忠は答えた。
「そうか、しめた。土居殿、ここは貴殿に任せる。わしは間崎殿とともに一度中村に戻る。くれぐれもわしがここを離れたことは味方にも知られぬよう頼む。」
と、康政は言うと、夜が明けぬうちに河後森の付城を後にした。



※1:小塚は現在の四万十市古津賀のこと。中村市街と古津賀の間には後川(寺後川)が流れている。
※2:大潟は現在の黒潮町入野の辺り。今は住宅や田園だが、かつてここには大きな湖のような干潟があった。 今も東側に少し残っている。

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