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天22章 国司下向(その二) [天海山河]

そんな折、土佐一条氏では一つの事件が起きていた。

弘治三年、執政の源康政と筆頭家老の土居家忠は、西園寺氏を攻めるため伊予に出兵していた。
この西園寺氏もまた公家大名の一つで、一条氏と同じ藤原北家の流れを汲む名門である。
鎌倉時代より伊予宇和地方を領し、そもそも一条氏も西園寺氏も争う理由はないのだが、この頃、周りの大名の縺れ合いから同門同士がいくさ場で相対せねばならなくなったのである。
そのわけとは、大内氏に代わって中国地方の覇者となった毛利氏と、豊後の守護大名である大友氏が、豊前、筑前をめぐって干戈を交え、互の背後を窺おうとしたからである。
毛利氏は伊予の守護大名河野氏と手を結び、大友氏は一条氏との婚姻のほか、伊予喜多郡大洲の宇都宮氏と手を結んでいた。
そして、西園寺氏は河野氏と誼を通じたため、真っ先に大友方の標的となったのである。
この代理戦争とも裏庭合戦とも言われる伊予騒乱は、以後二十年にも及ぶ長いものになる。
余談ではあるが、この騒乱が後に及ぼした影響は小さからず、江戸時代を通して伊予を一国支配した大名は無く、松山の松平、宇和島の伊達、大洲の加藤、小松の一柳など伊予八藩と呼ばれる分割支配に繋がったといっても過言ではない。

さて、康政と家忠は渡川の支流広見川を遡り、伊予鬼北の河後森城を攻めていた。
この城は独立した馬蹄形の丘陵の上にあり、正面を広見川、三方を薬研のような深い谷に囲まれた天然の要害であった。
この難攻不落の城に一条軍は付城を構えて睨み合い、出兵はすでに三年に及んでいた。
一方、邑都中村は主どころか宿老すら居ない空っぽの状態であった。
この様子をじっくりと窺っていた者がいた。
西小路に館を構える一条盛岳である。
盛岳は、日頃から土佐一条氏の当主の座を望んでいたが叶わなかった。
そもそも盛岳を推すものが少なく、せいぜい鍋島城の鍋島右近ぐらいであった。
「万千代はすでに宮仕え、もう戻っては来るまい。されど、何ゆえわしがこの家の主になれぬというのか。わしは一条家の一門ぞ。一門でもない康政や土居が政を牛耳るとは何事か。このまま落飾の身では合点がゆかぬ。」
と、盛岳は右近に吐露した。
「仰せごもっとも。しからばここは西園寺殿と密約してはいかがにございましょう。」
と、右近は献策した。
「西園寺か。」
「はい、今、鬼北にある康政らの軍勢を西園寺の兵と挟み撃ちにいたしまする。これならば、わが郎党だけでも十分にござりましょう。」
「なるほど。しかし、都との関わりはどうする。」
と、盛岳が訊ねた。
「盛岳様、今やこの世は力あるものが政道を司るのでござります。都は都、土佐は土佐。もはや、官位などお気に召されてはなりませぬ。まずは大友と袂を別ち、毛利に与するのが得策にござりましょう。」
と、応えた。
「よし、ならば善は急げじゃ。」
盛岳は早速、西園寺実充に宛てて書状をしたためた。

ところが、その書状が西園寺実充の手に届くことはなかった。
渡川を挟んで対岸にある間崎の領主間崎越後守は、鍋島右近とは犬猿の仲であった。
謀議は、密かに鍋島村に送り込んでいた密偵の報せで、越後守の知るところとなった。
「やれやれ右近め、とんだ謀事を考えておるようじゃな。されど、確たる証拠が欲しいものじゃ。盛岳殿は御一門。証拠もなく康政殿に報せたとて、手は出せまい。反ってわしの命が危ない。」
越後守は密偵にその書状を何としてでも奪い取るよう、命じた。
数日後、密偵は見事に書状を奪い取り、越後守のもとに舞い戻ってきた。
「でかした。」
越後守は書状を握りしめると、馬に飛び乗り、河後森へと駆け出して行った。






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