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26章 物部川(その一) [天海山河]

秦泉寺について述べる前に、少し時を遡りたい。
それは、楠目を落として間もない時のことであった。
物部川の奥、香美郡仙頭の領主、仙頭秀家という男が覚世を訪ねて来たのである。
仙頭氏は長宗我部氏と長い付き合いのある一族で、岡豊が落城の折、援軍に向かったところ、山田氏に行く手を阻まれて、已む無く断念したのである。
「信濃守殿、よくぞご無事で。」
と、秀家は長年途絶えていた誼の復活を喜んだ。
「仙頭殿もよくぞ長きに渡り耐えられましたな。」
と、覚世は秀家を労った。
「こたびの信濃守殿のお陰で我々一族は命を救われ申した。この上は信濃守殿にこの命を預けましょうぞ。」
「これは心強い。」
「ところで、信濃守殿、こたびそれがしが参ったは、是非お会わせしたいご仁がござる。」
と、言うと、随人に目配せした。
すると、その随人が一つ歩み寄り、
「某は池左衛門大夫秀康にござりまする。」
と、口上した。
覚世はきょとんとした。
池といえば、細川一族の池頼定の縁者くらいしか知らない。
その様子に秀家は、
「信濃守殿、このお方こそ、ご貴殿が御舎弟にござりまするぞ。」
と、言葉を加えた。
「何、わしに弟がいたのか。」
覚世には寝耳に水のことである。
「無理もござりませぬ。左衛門大夫殿は亡き元秀殿が池の御前なるお側女にお生ませなさったお子にござる。落城の折はまだ腹の中にあり、御前が城から命からがら大忍庄の池まで逃げて来られ、そこでお生みなされたのでございます。」
と、秀家は説明した。
「この歳になって、まさか弟と再会するとは思わなんだ。」
と、覚世は秀康をまじまじと見た。
確かに風貌だけでなく、背格好、仕草に至るまで赤の他人とは思えない。
「ところで、仙頭殿、秀康の名は如何にして付けたのじゃ。」
と、覚世は訊ねた。
「左衛門大夫殿の名は、某が亡き元秀殿より頂いた秀の字と、国を康らかんとする意をもって付けたのでござりまする。」
と、秀家は答えた。
「そうか。良き名じゃが、秀の字は我が家において宜しからず。いっそう国康としてはどうか。それならばわしの俗名も入っておる。今日より長宗我部左衛門大夫国康と名乗るがよい。ちょうど、比江山の城が出来たばかりじゃ。それを授ける。加えて、我が家の者は大忍には不案内じゃ。国康に仙頭殿、大忍の陣代を務めてくれぬか。」
と、覚世は懇願した。
「新参者に城のみならず、槍の働き場を下さるとは、有り難き幸せ。喜んでお引き受け致す。」
と、国康は頭を垂れた。
「よいか、くれぐれも勇んで命を粗末に致すな。それがわしの唯一の忠告じゃ。せっかくの兄弟の再会もぱあになるからのう。」
と、覚世は笑った。
「は、承知つかまつり候。」
国康はそう答えると、すぐさま比江山城に入り、兵を調えると、秀家と共に韮生郷へと向かった。

韮生郷には久保越中守貞弘をはじめ、柳瀬五郎兵衛道重、萩野織部らが山田基義を守って、頑強に抵抗していた。
その中で目をつけたのが大栃村の柳瀬道重であった。
大栃は物部川が上流に向かって二手に分かれる分岐点にある。
左に進めば久保村、右に進めば仙頭村へと続く。
また、ここは久保村と萩野村を繋ぐ中継地でもあり、ここを手に入れれば、 敵の防衛線を分断することができるのである。
しかし、川の二股の間に立つ城は急流に削られた高い崖の上にある。
「さて、如何にして攻めるかな。」
国康は、手持ちの兵では到底この城は落ちまいと踏んでいた。
無論、仙頭秀家も同じ考えである。
「土地を与えて、調略いたすか。」
と、国康は呟いた。
一方、秀家は近隣の者だけあって、五郎兵衛という男をよく知っている。
そもそも柳瀬氏の本城はこれより久保村寄りの柳瀬村にある。それが何ゆえこの要地を守っているのか。この男にそれだけの理由があるということである。
「左衛門大夫殿、柳瀬殿は国一の高潔者。易々と調略には応じますまい。ここは一手目が肝心。柳瀬殿は話を聞かぬ男ではござらぬ。利で落ちぬ男にならば理を持って落とすが定石。ここは野中殿を使者に立てては如何か。」
と、進言した。
大栃の手前、芳野村の領主野中肥前守貞吉は柳瀬道重の縁者である。
すでに長宗我部氏に降伏し、大忍衆の筆頭として山田の旧臣を束ねていた。
後のことではあるが、秦門でもない、いわば外様衆の山田の旧臣から、唯一長宗我部氏の家老として名を連ねたのはこの貞吉の子である。さらに、それには長宗我部氏の通字、親の字を与えられるという栄誉に浴したのである。
国康も貞吉のことは聞き及んでいる。
「成る程、人となりは確かじゃな。つくづく山田は良き家臣を持っていたものよ。」
と、国康はまた呟いた。
国康は軍事にはあまり向かぬ男であったかもしれない。
性格はどちらかと言えば温厚で、決断力にも欠けるところがある。それは長く身を隠していたためかもしれないが、むしろそういう性格であったのであろう。
そのため、これといった功績は残らず、唯一のそれはこの山田氏の攻略であった。
しかし、それには七年もの月日を費やしたのである。
さて、柳瀬道重の調略に向かった貞吉は、これまた数年係りで口説いた。
大栃を攻略したとき、すでに年号は天文から弘治に代わっていたのである。

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